ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

あなたの正体は

自分の正体を知る。

それはあまりにも痛快なことなので、

なんとかしてうまく伝えたいと思うのですが・・・

 

なんせ言葉を超えているものなので、今日も例え話です。

(過去記事では、温泉饅頭に例えたことも…)

 

 

最初に、大きな大きな光の玉を思い浮かべてください。

大きさは「無限」というと浮かべられないので、

身近なところで「東京ドームをまん丸にした感じ」でお願いします。(笑)

 

その光の玉に、巨大な白い布がおおいかぶさっています。

どうやらこれはスクリーンのようです。

 

おぉ、小さなあなたが、というか、

あなたが小さく、映っていますよ。

スクリーンのある地点を、一生懸命歩いています。

 

この地点の出来事が、まさに今人生で起きていることなんです。

 

それが自分の思うようにならないのか、

問題を解決しようと、あなたは深刻に悩んでいるようです。

 

そんな葛藤を、これまでどのくらいくり返してきたのでしょうか。。。

 

めまぐるしく移り変わる出来事に追い立てられるようにして、

まるで回遊魚のように動き回って、 悩み、

泣いて、笑って、怒って、また落ち込んで悩み・・・

 

「私は負けない、まだ足りない!」と言い聞かせて、

がんばってきたんです。

 

それでも、

 

ついに動き疲れ、力尽きてしまったあなたは、

何かに導かれるようにして、ふと立ち止まって目を閉じました。

 

すると、 なんということでしょう。。。

 

自分の意識が、大きなスクリーンの全体を眺めていたんです。

 

あちこちに、過去の自分が映っています。

未来らしき映像まで、チラホラ見えるではありませんか。。。

 

「過去も、現在も、未来も、全部一緒にここにある。

わあぉ、これぜんぶ、自作自演のストーリー?

あんなに悩んで、

がんばらなくちゃ、もっと上を目指さなくちゃって、

ジタバタしていた私は、スクリーンに映った影だった…」

 

いまここでスクリーンを見ているのが、“本来のワタシ”だ・・・

 

そのことに気づくと、

時間が止まり、

映像が消えました。

それらはすべて幻想だったんです・・・

 

あるのは、

「永遠のいま」と、「光の玉」

 

自分の正体は、永遠に存在する「光」だとわかりました。

 

小さなあなたは、

光の玉の小さな表現(影)だったんですね。

 

意識が、ふたたび小さなあなたに戻り、

目の前に見慣れた景色が拡がりました。

 

そっか、もう、何者にもならなくていいんだ… 

この体があるうちに、何を映して遊ぼうかな?

ようし、

今度は深刻なドラマはやめて、とびきり愉快で楽しいドラマにしよっと!

 

自分と仲直り

自分のこと、好きですか? 嫌いですか?

どこがどのくらい、気に入らないの?

 

私は、“心の成長”を目標にしてがんばっていたころ、

「どうして成長したいのか」と聞かれたら、

「成長すれば、もう苦しまなくなるから。幸せになれるから」

と答えたでしょう。

 

でも、よくよく考えると、

一見、前向きな「成長したい」という心には、

「成長しないとダメ」と「まだ幸せじゃない」

という強迫観念があったんですね。

 

今振り返れば、なんて自分にかわいそうなことを・・・

と泣きそうになりますよ。

一生懸命走っている馬にさらに鞭打って、

おしりから血が噴き出していた…という感じ。

 

当時は、自分を好きになりたくて必死だったんです。

不甲斐ない自分が嫌い。

お調子者の自分が嫌い。

容姿端麗じゃないからいや。

   :

あげればキリがありませんが、(笑)

足りないものばかり見ていたんですね。

 

心理学を勉強してから、考え方が変わりました。

「足りないものではなく、手元にあるものを見よう」と。

幸せになる方法がつかめたと思いました。

 

ところが、

意識が根底からひっくり返って…はっきりわかったんです。

幸せになるのはもっと簡単だった!

 

というか、もともと幸せだった~~~!!

 

私たちはひとり残らず、最初から幸せな存在なんです。

もともと幸せというより、もともと不幸がない。

 

そんな“自分の正体”を思い出すゲームにいそしむ私たち。

 

このゲームは、思い出してからもおもしろいのですが、

まず仕組みに気づいたときの喜びと感動は大きいほうがいいと、

波乱万丈の人生を設定し、嫌いや不満をたっぷり味わい、

ときがくれば、

なーんだ幸せに戻った…とわかるようにしたんですね。

 

みんないつかは、自分の正体を思い出すわけです。

だったら、今苦労している自分と仲直りして、

これから別バージョンのゲームを楽しみませんか? 

 

「成長」を目指さないで、「ありのまま」を受け入れる。

「幸せになろう」としないで、「なるがまま」に任せる。

 

これは、自堕落になることではありません。

今ある人生と、過酷な条件を設定した自分を、

無条件で愛する、ことなのです。

 

覚醒したら変わること

ある日突然、意識が覚醒したらどんな人間になるんだろう?

 

ずっとそんなことを考えて、期待に胸をふくらませて・・・

未だ覚醒しない自分を、「ちっぽけだナァ…」と感じていました。

 

もし、これを読んでくれている人の中に

そんなふうに感じている人がいたら、

声を大にして伝えたい!

 

「あなたは、少しもちっぽけではありません!」

そして、

「今想像しているような人間にはなりませんよ」と。

 

 

覚醒したら変わることと、変わらないこと。

私が知り得たことを書きます。 

 

覚醒したら、怒らなくなるのか?

いいえ。

でも、何かに腹が立ったときは、

「おうおう、ムカついてるね」と自分のようすが見えるようになります。

 

苦しんだり悲しんだりしなくなるのか?

いいえ。

苦しい、悲しい、といった負の感情を抑え込まなくなる分、

苦しいときは苦しみ、悲しいときは悲しみますが、

いつでもそこから抜け出せるようになります。

 

ほかの人たちと自分は違うと感じるのか?

ぜーんぜん。

むしろ、ごく普通の人間だということを痛いほど感じます。 

どの人も、普通で平等でとっても個性的。

すばらしい存在なのです。

 

だから、

覚醒したら聖人のような雰囲気になる…なーんてことは、

ありません。

むしろ、自分の持ち味を認め、欠点を許して受け入れるので、

無邪気に振る舞えるようになるでしょう。

 

好き嫌いはなくなるのか? 

いえいえ、

人にも物にも、好き嫌いを感じるのは以前と同じ。

嫌いな人や物には、距離を置くことはあっても、

ムリして合わせたり、非難したりすることはなくなります。

 

覚醒したら、もう夢を追いかけなくなるのか?

とんでもない。

純粋に、今ここにある人生を楽しもうと思うから、

やりたいことをためらう気持ちのほうが消えます。

 

だれのことも無条件に愛せるようになるのか?

Yes & No

肉体を持たない “本来のワタシ”は、Yes

自我満載の私は、No

 

覚醒とは、

私は “本来のワタシ”の中にいることを自覚して、

一体で生きることを歓迎することなのかもしれませんね。

 

あなたの存在価値は、

目覚めていてもいなくても、まったく、変わりませんよ! 

 

もしも名前がなかったら…

もしもピアノがなかったら・・・(-_-♪

人生が変わる人がいるかもしれないように、

 

もしも名前がなかったら、

まわりへの反応が変わるかもしれません。。。

 

 

 

 朝、ベッドの中で「ザー」という音が聞こえた。

 「あ、雨!」とその名を呼んだ。

 「やだなあ、満員電車」と暗い気持ちになった。

 

 夕方、帰り道で「カー」という音が耳に入った。

 「あ、カラス!」とその名を呼んだ。

 「フン落ちてこないかなぁ」と心配になった。

 

無意識に、こんなふうに反応していないでしょうか?

「ザー」→「満員電車で不快な思いをさせられる雨」

「カー」→「フン公害をまき散らす嫌われもののカラス」

これ、ぜんぶ観念です。

 

五感に飛び込んでくる刺激を名指しして、

わざわざ不愉快になる観念を引き出して、

その通り、不愉快になる・・・

ということを、

私たちは、たった1秒でやってのけます。

 

ハッピーな観念ならまだしも、

たいては、不安や不審や警戒にまつわるものが多いので、

起きているあいだじゅう続けていたら、

もうそれだけで、心が疲れてしまうんですね。

 

 

そこで提案です。

 

「ザー」を「ザー」のままにしておく。

「カー」は、ただ「カー」、ああだこうだと考えるのはナシ。

 

これは、観念を持ち出さない練習です。

 

「ザー」と聞こえたら、「ザー」と言って、おわる。

「カー」は、「カー」だけ。

「ミーン、ミーン」も、「ピポー、ピポー」も、そのまま。

 

いちいち思考を持ち込まないと、何が起きるのか・・・

ぜひ試してみてください。

 

私は、最初、ものの名前やイメージが、

あまりにも瞬間的に飛び出すことにおどろきました。

まあ、それだけ観念、思い込みが強かったんですヮ。

 

でも、気長に、ゲーム感覚で続けるうち、

心配や疑いといった、望まない考えを振り払うこと、

「カット!」と言って、遮ることができるようになりました。

 

こうなるとラクですよ。

それまで簡単に陥っていた不愉快になるルートから、

自らを解放できるからです。

 

また、

いちいち名前で判断しないと、

それだけ先入観を取り込まないので、

今あるものを、今あるがままに、見られようになるんですね。

 

そうか…と思った私は、やりました、やりました。

 

自分自身から、名前を取る!

次いで、肩書きも、性別も、年齢も、取る!

さらに、役割も、歴史も、未来も、取る!

 

あー、すっきり。

私は、なんでもなくなりました。

私なんて、いないじゃないの。

 

これが、よく耳にする「私はいない」の真相です。

 

そこで見つける"お宝"とは

特別な人になるための探究をおしまいにしたら、

思いがけない “お宝”を発見!

 

苦労して特別な人になろうとしなくても、

自分は最初から特別だった。

「なーんだ、このままでよかったんだ…」と納得できたことです。

 

あなたも、私も、全員、 

望み通り、人間として生まれることができて、

毎日違う体験をしながら、こうして生かされています。

 

そのことが、すでに「すばらしく特別」なことなんです。

 

しかし、全員がそうやって生かされているわけですから、

「特別な人はいない」ともいえます。

 

言葉は、どっちでもいいんです。

 

大事なことは、

「望み通り、生かされている」と気づくこと。

「ありのままが、100点満点」と知ること。

 

ようは、

自分に足りないものがある、という誤解を解くことなんですね。

 

 

『少欲知足』(欲を少なくして足るを知る)という言葉があります。

これを「ないものを欲しがらず、あるもので我慢する」と解釈すると、

なんか窮屈で、あきらめモード満載の感じがするでしょう?

 

違うんですよ。

「まだ得られていないものを欲しがらず、

すでに得られているものに満足して、心穏やかに生きよ」

と、釈尊は伝えたかったのだと思います

 

「すでに得られているもの」に気づくことが、

心穏やかに、幸せに生きていけるかどうかを決めます。

 

「すでに得られているもの」とは、

すでに在る自分。

究極は “本来のワタシ”のことです。 

 

さあ、自分に足りないものがある、という誤解を解きましょう!

 

「自分の存在価値を決めるものは、

人の評価ではなく、私自身!」と肝に銘じて、

人のことばかり見ていた目を、自分の内側に向けるのです。

 

そして、思いをはせてみて・・・

 

自分が眠っているあいだも、心臓を動かしている存在は?

自分に自由意志を与えて、なんでも選べるようにした存在は?

 

人生は思うようにならない、今の自分が気に入らない、

ああ特別になりたい…と不満だらけなのはだれのせい?

 

 

あなたを生かしているのは、まぎれもない “宇宙の愛”。

あなたを味わっているのは、“本来のあなた”(本来のワタシ)です。

 

つまりあなたは、最初から “完璧な存在” なんです。

 

それを、どのくらい本気で信じることができますか?

 

覚醒体験を待つまでもなく、

本気で信じることができたら、きっとお宝が転がり込んできますよ。

「心の静けさ」というオマケまでついて。。。 

 

探究がやむとき

正解を求めて、右往左往・・・

「そんな探究は、もうおしまい!」と言うのは簡単ですが、

まじめで向上心が強い人ほど、

実践するのはハードだと思います。 

 

ひたすら上昇志向でがんばってきた自分に、

「探究はおしまい。もう上を目指さなくていい」と言えば、

「いいわけないじゃん!」

という自我の声がはね返ってくるでしょう。

 

自我の持ち味は「欠乏感」と「不安」です。

それが「まだ足りない」「安心できない」という思考を生み、

「だったら探究しなよ!」とあおるんですね。

 

どんなにあおられても、けして乗ってはいけません。

 

乗れば、当然のように心がかき乱されて

「今・ここ」に集中できなくなります。

そして、

ずっとたどり着きたいと思っていた「自分の源」から

目を離すことになるからです。

 

探究したい気持ちの背景に、

根深い「欠乏感」と「不安」があるのは、

あなたのせいではありません。

 

幼いときから、 「できたから偉い」とほめられるうち、

「できないと不十分で認めてもらえない」と不安を覚え、 

大人になって、できない体験をするたびに、

「こんな自分じゃ価値がない・・・」

と自分を見下すようになったんですね。

 

自分に価値がないなんて、幻想ですよ!

 

真実は、

自分が生きていることに、完璧な価値がある!

 

探究がやんだとき、

“本来のワタシ”が、それを証明してくれるでしょう。

 

 

探究がやまなくて四苦八苦している人には、

強制執行」が用意されることも。。。

大病、人間関係の破綻、失業、借金地獄などがそう。

 

私たちは苦しみが限界に達すると、

「もう何も考えられない。これが現実なら受け入れよう…」

とようやく抵抗するのをやめて、降参します。

 

そこに、神の恩寵として、大いなる気づきが訪れるのです。

 

私の覚醒体験は、2回ともそれでした。

頭がまっ白状態のとき、 “本来のワタシ”に遭ったのです。

 

 

あなたは、自分の価値をどうか見くびらないでください。

 

苦しいことがあるなら、

いっさいの抵抗と、探求をギブアップして、

苦の体験に身を投じてみませんか?

 

完全に、自分を明け渡すことができたら、

きっと何か…が起きるでしょう。

 

最初の覚醒体験 その2

                                          ―― つづき ――

 

私が「神様の愛」と感じたものは、

今思うに「宇宙の愛」、「本来のワタシ」でした。

それしかない「ソレ」、それがすべての「ソレ」です。

 

そんな愛を、自分の中に感じていた数ヶ月間は、

手術を受けたときも、

無職のままでボランティア活動に励んでいたときも、

不安はありませんでした。

 

いえ、それどころか不思議なことに、

ボランティアの会で隣り合わせた人が出版社の人で、

なぜか私が本を書くことになり、

それを機に、物書きへの道が開かれていきました。

 

さらに、ライフパートナーになる人と運命的な出会いをして、

(現在の夫です)

神様はどこまで太っ腹なの!?  とウルウル。。。

 

その一方で、

覚醒体験で得たやすらぎは、しだいに薄らいでいったんです。

「いやだ、また味わいたい!」

そんな執着心がムクムクと頭をもたげ、 

私は猛烈に、見えない世界への探求をはじめました。

 

「もっと意識が高まれば、もっとよく理解できるはず!」

「悟れば、すべての悩みから解放されるに違いない!」

 

そんな妄想を抱き、精神世界の情報を集め、

心理学や哲学や宗教の知識を詰め込み、

座禅は毎日欠かさず、道場に泊まりがけで参禅もしました。

 

 

まっこと、ご苦労さんな話です。(-_-;)

あのころは本気で、

「自我を滅しよう」と苦労していましたから。

 

じつは、自我を滅する必要なんてなかったんです。

自我は肉体とセットですから、

そもそもが、なくならないものなんですね。

 

でも、無知だった私は、

「自我を滅し、いつか悟る」という目標を掲げて、

報われることのない探究にのめり込みました。

 

 

ま、そんな体験を経て、今の私がいて、

このようなブログを書いているわけですから、

人生は、なるようにしかならないんですが…

 

もしかしたら、これを読んでくれている人の中に、

かつての私みたいに葛藤中の人がいるかもしれないので、

あのときの自分に、

今の自分が伝えたいことを書きます!

 

あのね、

いつか~になる――の「いつか」は頭の中の時間。

実際は「いま」しかないから、「いつか」は幻想ですよ。

 

それと、

まだ悟ってない――と思うのは、誤解。

みんなもともと悟っているから、それ以上は悟れない。

“本来の自分”を思い出すことが、いちばんの近道です。

 

「物」には、前ほど執着することがなくなって、

その分、「意識を高めること」に魅かれる気持ちはわかるけど、

よくよく考えてみて。

 

「物」が「悟り」に変わっただけで、

執着心、つまり、ほしがる気持ちは変わらないでしょう?

それは、自我以外の何ものでもありません。

 

それに気づいているから、そんな自分を容認できず、

「これじゃいけない」って苦しむんですね。

 

人生は、回り道OK、何をしてもかまわないけれど、

苦しいのはもうたくさん。

自分の本当の価値に目覚めたい、と思うなら、 

いつか悟ることを夢見て過ごすのは、もうやめましょう。

 

素のあなたにこそ、完璧な価値があるのです。

だから、「ありのまま、なるがまま」

 

何者かになろうとしなくていいですよ。

探究をおしまいにすれば、それでいいんです。