ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

衝撃的な体験!

~~今日も日記風~~

 

我欲の詰まったガラスビーカー(自我)の底が抜けて、

『真抜け』になり、

その後、残っていたガラスの筒も砕け、

私は過去の自分(概念)から釈放されたように自由になった。

 

というようなことを4か月に渡って書いてきたけれど、

想像を絶する続きが・・・それを記しておきたいと思う。

 

ガラスビーカーは、自我の象徴のイメージ。

宇宙に飛び散ったガラスの破片は、

日を追うごとにまあるくなり…

少しづつ小さくなり…

ある日、ふっと消滅してしまった。

 

ようは、私が・・・消えた。

 

そのとき思ったこと。

「私はいない」というのはコレだったのか…

 

目は見えているし、音は聞こえている。

だけど、それは私の目じゃないし、私の耳じゃない。   

まるで全体意識が見聞きしている感じ。

 

全体が、ワタシ。(これは自我の私じゃないョ)

 

全体は、

いうならば、空間。

空気といってもいいかも。(空気のないところはないから)

 

その空気は、

愛そのものといえるし、

ひとつの命(ワンネス)ともいえる。

 

自我の私は消えて、ワンネスだけがある。

 

そのワタシは、

すべての空間であり、

愛そのものであり、

命の躍動だった。

 

こうして・・・目を見開いたまま、言葉を失って、

しばし非二元(ノンデュアリティ)を体験した。

 

それまでは、

「私はいない」とか「愛だけがある」とか「死はない」とか…

そんなフレーズを耳にしてもチンプンカンプンだったけど、

ようやく実感!

なっとく~!!

 

まさに、非二元は、

唐突に向こうからやってきて、

体験を通して気づかされるサプライズだった。

 

私たちの正体は、命だったのだ。

それを「大いなるすべて」と呼んでもいいし、

「全体意識」と呼んでも、「神意識」と呼んでもいい。

 

そもそもが言葉を超えているのだから、表現がむずかしい。

でも、言葉を駆使すると、(笑)

 

命は、ありとあらゆるものを宇宙に表し続けている。

人間は、そうして表される一つに過ぎない。

 

ところが、人間は勘違いした。

「これは、私の命」だと。

 

いえいえ、

真実は「命が私」なのだ。

命が見ている夢物語こそが、それぞれの人生なのだ。

 

夢物語だから、どんな展開になっても問題ないし、

どんなときも、命という愛の中からはみ出ることはない。

誰一人、愛されていないなんてあり得ない!

それが完全に腑に落ちた。

 

だからもっと、うんと気楽に人生を味わえばいいし、

生きている実感があることを、素直に喜ぼう。

 

ダライラマは、死とは何かと尋ねられてこう答えた。

"Only chenjing body!"

肉体を取り換えるだけ。

 

命は、生ずることも、滅することもない。

まさに、永遠に続く、すべて。

 

命が〝主人公〟とわかって、ますます能天気になりました!(*^▽^*)