ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

最初の覚醒体験 その2

                                          ―― つづき ――

 

私が「神様の愛」と感じたものは、

今思うに「宇宙の愛」、「本来のワタシ」でした。

それしかない「ソレ」、それがすべての「ソレ」です。

 

そんな愛を、自分の中に感じていた数ヶ月間は、

手術を受けたときも、

無職のままでボランティア活動に励んでいたときも、

不安はありませんでした。

 

いえ、それどころか不思議なことに、

ボランティアの会で隣り合わせた人が出版社の人で、

なぜか私が本を書くことになり、

それを機に、物書きへの道が開かれていきました。

 

さらに、ライフパートナーになる人と運命的な出会いをして、

(現在の夫です)

神様はどこまで太っ腹なの!?  とウルウル。。。

 

その一方で、

覚醒体験で得たやすらぎは、しだいに薄らいでいったんです。

「いやだ、また味わいたい!」

そんな執着心がムクムクと頭をもたげ、 

私は猛烈に、見えない世界への探求をはじめました。

 

「もっと意識が高まれば、もっとよく理解できるはず!」

「悟れば、すべての悩みから解放されるに違いない!」

 

そんな妄想を抱き、精神世界の情報を集め、

心理学や哲学や宗教の知識を詰め込み、

座禅は毎日欠かさず、道場に泊まりがけで参禅もしました。

 

 

まっこと、ご苦労さんな話です。(-_-;)

あのころは本気で、

「自我を滅しよう」と苦労していましたから。

 

じつは、自我を滅する必要なんてなかったんです。

自我は肉体とセットですから、

そもそもが、なくならないものなんですね。

 

でも、無知だった私は、

「自我を滅し、いつか悟る」という目標を掲げて、

報われることのない探究にのめり込みました。

 

 

ま、そんな体験を経て、今の私がいて、

このようなブログを書いているわけですから、

人生は、なるようにしかならないんですが…

 

もしかしたら、これを読んでくれている人の中に、

かつての私みたいに葛藤中の人がいるかもしれないので、

あのときの自分に、

今の自分が伝えたいことを書きます!

 

あのね、

いつか~になる――の「いつか」は頭の中の時間。

実際は「いま」しかないから、「いつか」は幻想ですよ。

 

それと、

まだ悟ってない――と思うのは、誤解。

みんなもともと悟っているから、それ以上は悟れない。

“本来の自分”を思い出すことが、いちばんの近道です。

 

「物」には、前ほど執着することがなくなって、

その分、「意識を高めること」に魅かれる気持ちはわかるけど、

よくよく考えてみて。

 

「物」が「悟り」に変わっただけで、

執着心、つまり、ほしがる気持ちは変わらないでしょう?

それは、自我以外の何ものでもありません。

 

それに気づいているから、そんな自分を容認できず、

「これじゃいけない」って苦しむんですね。

 

人生は、回り道OK、何をしてもかまわないけれど、

苦しいのはもうたくさん。

自分の本当の価値に目覚めたい、と思うなら、 

いつか悟ることを夢見て過ごすのは、もうやめましょう。

 

素のあなたにこそ、完璧な価値があるのです。

だから、「ありのまま、なるがまま」

 

何者かになろうとしなくていいですよ。

探究をおしまいにすれば、それでいいんです。