本当は、私ってナニモノ?
宇宙ってすごい、すごすぎる!!
と思いました。
人間の感情というものを、
見事に、順に体験させてくれていたんだ!
と気づきました。
そこには、壮大な魂の計画があったのです。
では、改めて〝そもそも〟のお話から。
私たちは、そもそも、
無垢で、自由な、愛の存在です。
それを「魂の自分」と呼ぶなら、
その自分は、そもそも損得や憎悪や嘘のない、
望めば何でも叶う自由な宇宙にいるわけです。
そこで魂の自分は思ったんですね。
(わかりやすいよう、あえて魂を擬人化して語ります。)
魂の世界とは真逆の人間界では、
どんなことを感じることができるんだろう・・・
人間に入って、人生を生きて、未知の体験をしてみたい!
ありとあらゆる〝感情〟とやらを味わってみたい!
それで成長すれば、宇宙の進化に貢献できるかも!
よし、人間になって『本来の自分を思い出す遊び』をしよう。
でも待てよ、
本来の自分を「思い出す」ためには、
最初に、本来の自分を「忘れる」必要がある。
じゃ、人生のどこかの地点で、それを「思い出す」仕掛けにしよっと。
とまあ、、、超ざっくりですが、こんな遊びを計画したんですね。
(遊びとは、楽しいことという意味です)
人間になりたての赤ちゃんは、
まだ、本来の自分のままなので、身体に興味津々!?
「なんだこれ」という感じでしょうか。
体をなめてみたり、かたや天使を見て笑ったりと、自由奔放です。
それが物心ついて、親のしつけがはじまると、
「こうしなさい」「どうしてできないの」「ダメねぇ」
といった否定的な言葉を浴びて、
知らないうちに、人間の一部である心を傷つけながら、
自信をなくし、自分を信じることができなくなっていきます。
人目を気にすればするほど、
「こうあるべき」という観念が強く刷り込まれていき、
思うようにならないことへの不満、怒り、不安、我慢、
要領よく立ち回ることや、嘘をつくことを覚えていきます。
苦しい、悲しい、悔しい……これらは、愛とは正反対の感情です。
愛を見失って自分にNoを出しながら、
「負けるもんか!」とがんばり続けるんですね。
愛されたいと願い、自由な人生にあこがれながらも、
がんばらなければ幸せになれない…と涙ぐみます。
これ、ぜーんぶ、勘違いなのに、ネ。
かつての私がそうでした。
人に認められたい一心でがんばり続け、
死んでしまいたいくらい、ズタボロになりました。
つまり、見事に本来の自分を忘れてしまった。
魂の自分の思うつぼだったわけですよ。(笑)
ズタボロになって自我崩壊したあと、
本来の自分を「思い出す」という本題がはじまりました。
愛を思い出すために、愛でない感情を知った体験も、
自由を思い出すために、制限される痛みを味わった体験も、
無垢を思い出すために、よこしまな感情を抱いた体験も、
計画通りだったんだ、と今ではよーくわかります。
苦悩した体験はすべて、それはひとりひとり違うけれど、
本来の自分を思い出すための布石なのです。
でもね、中途半端につらいときが一番苦しいんです。
まだもう少し、がんばれるときが・・・
しかし「これ以上、本当に耐えられない!」と追い詰められると、
抵抗することをいっさいやめざるを得なくなります。
そのとき、ふと、本来の自分に立ち返る瞬間が訪れるのです。
これは理屈じゃない。
知性でも、理性でもない。
あえて言うと〝気づき〟です。
胸の奥深くから突き上げてくる真実(真理)に出会うたび、
ひとつまたひとつと、
刷り込まれた観念が、泡がはじけるように消えていきます。
そうしてしだいに、三次元的なとらわれから解放されていくのです。
ついに、ほかの選択肢がなくなって、
「ありのまま」の自分で生きることを許し、
「なるがまま」の人生を謳歌しはじめます。
これが覚醒です。
こうして本来の自分を思い出すことは、
宇宙の計らい。
宇宙の愛だからこそ、
だれの身にも、早晩必ず起きると信じます。