ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

2018年もあと10日

どんな年末をお過ごしでしょうか・・・

 

ここ沖縄は、最高が24度とか25度という気温でして、

豪雪地帯から引っ越してきた私たち夫婦にとっては、

なんとも気分の出ない年の瀬といいますか、

「えっ、もう、クリスマス?」という感じです。

 

まあ、それも楽しや、珍しや。

「あったかいに越したことはないもんね」

「でもさ、これが12月の終わりとはねぇ」

などと語らいつつ、

半袖姿で、窓全開で、鍋つついてまーす。(笑)

 

 

さて、明日は冬至

一年で太陽の出ている時間がもっとも短い日。

今年の冬至点は、7:23AM。

 

太陽エネルギー(磁力)と地球エネルギー(重力)が織り成す

この節目の瞬間に、

だれもが宇宙からの大きなエネルギーを浴びます。

今年は日の出の時間に、友人たちと海辺で祈りを捧げる予定です。

 

よろしかったら…

もし覚えていたら…

明日の朝、そっと手を合わせてみませんか?

自分以外のだれかのために・・・

全体のために・・・

 

私ね、しみじみ、不思議な気がするんです。

 

今まで、こんな気持ちで冬至を迎えたことなんて一度もなかったから。

出会いが人生を未知の世界に誘い、

そこで芽生えた感覚が選択を変え、

抱いた喜びが引き寄せるものを決定するのかもしれませんね。

 

頭で考えるのではなく、

感覚を研ぎ澄ませて、

大自然と呼吸を合わせ、

いまここにくつろいでいる・・・

 

いつのまにか、

そんな生き方が身についたのかもしれません。

 

今やれることを精一杯して、

今味わえることを心から楽しんで、

いい人生だったなぁ~、というのがいいなぁ。。。

 

まだ終わってないけど(笑)

 

 

さて、そんな沖縄ライフをひと休みして、

私は26日から、さむ~い名古屋へ里帰りします。

アメリカから妹と甥っ子がやってきて、賑やかなお正月になりそう。

父のうれしそうな顔が目に浮かびます…(*^-^*)

 

今年も、たくさんの応援をありがとうございました。

では、みなさん、どうぞよいお年を!!

(*'▽')/

 

小さなことは、大きなことの表れ

今年を振り返ると、激動の年でした!

ま、やっとこさ長野に建てた″終の棲家”を、

あえて売り払って沖縄に移ってきたんですから、

それだけで十分、人生に″激震”が走ったわけです。

 

そんな派手なことをしでかしておいてなんですが、

ここにきて感じることは、

「人生で大事なことは、小さなことだ」ということ。

 

ちょっとした笑い、

ささやかな興奮、

いいねぇ!という共感。

 

こうした日常の、どうということのない小さな快感に、

大きな価値を感じている私が今います。 

 

なぜなら、

私は長いあいだ、デカいことを成し遂げるのが立派な人で、

自分もデカいことができるようにがんばらなくちゃ、と思っていたから。

 

思っていたというよりは、

まわりの価値観に洗脳されていたのかもしれません。

 

そのことに気づいてから、

デカい夢や目標を抱くのはいいことでも、

その反動で、日常の小さなことをないがしろにしたり、

当たり前にやっていることを無意味に思うのは、おかしいよねー。

 

と、頭ではわかっていたんです。

 

でも実際は、いくら頭でわかっていても、

日常の小さなことにわき立つような価値を見出せなくて、

もっと価値を感じられるものはないかと探し回っていました。

 

ようは、日常を犠牲にしてでも、デカいことをしたい!

そう思っていたんですね。

 

 

それが沖縄にきて、、、

 

毎朝、目の前に広がる海に手を合わせ、

自分を受け入れてくれた土地の神様に感謝して、

生かされていることを心底ありがたいと思いました。

 

そして、出会った人と食事をし、語り合い、笑い合う・・・

そんな今に、ゆったりとくつろげるようになったら、

 

小さなことが、全体につながっている。

自分のいるところは、いつでも神聖な場所なんだ。

ということが…

理屈ではなく、実感できるようになったんです。

 

別の表現をすると、

 

自分は…

すべてのものは…

大いなるイノチの表れ…ということに感動したんですね。

 

その感動は、

さざ波が押し寄せるように、私の深い部分に浸透していきました。

 

以来、鳥のさえずりも、

工事のトッテンカンという音も、

朝晩、鳴り響く町内アナウンスの声も、

ぜーんぶ、なにもかも、大いなるイノチの表れなんだなぁ…

と感じるようになりました。

 

すると、何事を見聞きしても、ふふっと笑いがこみあげます。

 

この一年を振り返ると、

そんな自分の変化が、沖縄移住よりも大きな出来事でした。(笑)

 

そういえば、

このブログをはじめたのも今年でしたね。

不定期にもかかわらず、いつも読んでくれてありがとう! (*^-^*)/

 

もうひとつの 顏

次の本はいつ出るんですか? とたまに聞かれます。

 

いやいや、ここ2年ほど筆を置いていましたが、

また書きますよ~~!

 

40歳からの20年間、書いて書いて書きまくりました。

数えたら、海外版を含めると、50冊の本を出版することができました。

これは年間2.5冊のペースです。

ま、海外版に関しては何もしないので、年間2冊のペース。。。

 

これね、かなりきつかったんですよ。

で、ついに枯れてしまって…

しばらく休もうと決めて…

結果、沖縄に引っ越しちゃいましたぁ~ (^▽^;)

 

しかし思い切ったかいあり、

エネルギーがジワ~~ッと満ちつつあるのを感じています。

きっと、まもなく充電完了、する、でしょう。

 

気長に、私を応援してくださっている皆さま、

本当にありがとうございます。

 

今回は、書きたくて書きたくて

ムズムズするまでがまんするぞ、と思っているので、

もうしばらくお待ちくださいませ。m(__)m

 

 

だからといってはなんですが、

[ note ]というサイトをご存知ですか?

 

今日はそちらを見てねー、というお誘いデス。

 

note は誰もが文章、写真、音楽、動画などを投稿できて、

作り手とフォロワーをつなぐサービス。

私は、著書から何編かエッセイを転載しています。

 

私にとってエッセイの転載は、

なつかしい文章にふたたび目を通し、装いを整え、

新たな読者に届けられるという、うれしい作業なのです。

 

また、noteでは、逗子時代に知り合った沖縄在住の友、

田中小梅さんとはじめた交換日記も継続中!

(こちらは有料部分もあり)

ウメちゃんは、表稼業は専門学校の校長であり作家ですが、

裏稼業は10歳からray視(波動)を使い人生相談をしているという

破天荒で愉快な大切な仲間です。

 

ぜひ一度、のぞいてみてくださいねー!

 

 

note.mu

きびしい目標はいらないかも

沖縄に移り住んで3カ月半。

新たな出会いがたくさんありました。

みんなけなげに生きていて…

みんな霊性を高めることに一生懸命で…

 

ああ、私はこの人たちと出会うために沖縄へ来たのかな…

と思うくらい、なんだか魂の仲間に出会ったような気がします。

 

人生が楽しくなるか、楽しくなくなるかって、

出会いに大きく左右されますよね。

  

もちろん、人生に何が起きても、

何を感じるかは自分の内面が決めることだけど、

ふわーっと喜びをわき立たせてくれる人と一緒にいると、

やっぱり素直にうれしい!

 

それは、

いい刺激であると同時に、大きなやすらぎになります。 

 

 

で、ふと思ったんです。

 

魅力的な人たちは、イキイキと自分の夢を生きています。

でもそこに゛必死でゴールを目指す悲壮感゛めいたものはない。

むしろ゛今という夢の過程を楽しんでいる゛ように見える。

 

それこそ、

いつ死んでも笑って死ねるだろうな、、、という雰囲気なんです。

 

かつての私は、

仕事でも、学びでも、悟ることに関しても、

目標を立てるのが大好きでした。

 

立派な目標を立てることで安心し、

それがきびしければきびしいほど張り切る反面、

まだとてもたどり着けそうもない自分に、

ヤキモキ、イジイジして劣等感を覚えました。

 

そんなふうにして何十年も過ごしてきて、

今になってつくづく思うのは、

「人生にゴールはない。あるのは過程だけ!」ということ。

 

別になげいているわけじゃありませんよ、逆、逆。

ゴールがなく、過程/途上しかない。

ということは、

「途上に見える今がすでにゴールなんだ」と気づいたんです。

 

仕事も、学びも、悟りも、

私がきびしい目標に向かって突っ走ったのは、

ああなって、こうなって、と物理的なものを手に入れ、

とどのつまり(ゴール)は「幸せになりたい」からでした。

 

けれど、禅の師匠から、

幸せになりたいと思う今がすでにゴールだと諭されて、

今という瞬間に心を置くようにしたら、

そこが「幸せの着地点」だったとわかったのです。

 

 

幸せの着地点を体験するのは、思っているより簡単です。

ためしに、

食事をするとき、目をつむって口の中だけに意識を集中してみて。

 

食品の値段とか、評判とか、全部無視!

外部の音にも気をとられないようにしてね。

そして、

口の中でそれがかみ砕かれ、唾液と交じり、舌が味をとらえ、

のどの奥に送り込まれる・・・その瞬間、瞬間に心を置きます。

 

それが「今に在る」ということ。

そのあいだ、頭の中はスッキリしているはずです。

 

私たちは、本当はそんなふうに生きることもできるんです。

過去を思いわずらい、未来におびえて生きなくても、

今に心を置いて、やすらかに過ごすこともできるんですね。

 

  このブログにも【探究の終焉】というカテゴリーを設けて、

  探し求める心について書いてきました。

  それはつまり、幻想を追いかける心だから。

  自分にダメ出しばかりする心だから。

  そのことに気づいて「今に在ろう」と。。。

 

私たちはみんな、人間スーツを着て、

゛この世の夢を追いかける遊び゛のまっ最中なんです。

夢はエンドレス、スーツを脱ぐまで次から次へと現れます。

(現にお年寄りは、ラクに死ぬのが夢とおっしゃる)

 

だからこそ、

自分の好きな夢を抱き、その夢を追いかけて、

途上の「今」を 100%楽しみましょうよ!

 

そうして今を生きることに 100%価値を見出したら、

いつでも笑って人生の幕を下ろせると思います。

 

追いかけている夢が道半ばで終わっても、

その今が、幸せなゴールなのだ~~ってね。

 

私はそんな生き方がいいな。(*^-^*)/

 

家族は、近くて遠いもの。

先週、89歳の父が沖縄にやってきました。

アメリカ在住の妹に連れられて、40年ぶりに沖縄を訪れ、

3泊4日の家族旅行に出かけました。

 

美ら海水族館で、父は人生初の電動車椅子に乗りました。

最初は「車椅子はまだいらん!」と言って抵抗していたのですが、

とにかく広い。。。

さすがに歩き通せないと思ったのでしょう。

 

いざ乗ってみると、電動は自分で運転できる上に、

自力で歩くより、はるかに早くてラクチンだったようです。

まるで、カートに乗った子どもみたいに楽しそうに見えました。(^▽^;)

 

さて、水族館ですから、

訪問の目的は同じはず。

はい、普段はめったに見られない海洋生物の観察です。

 

ところが、父はジンベイザメのみがお目当てらしく、

人混みの中をドデカイ水槽めざして、一直線に突き進みます。

 

妹は、「えっ、全然観ないの~?」と戸惑い気味に追いかけ・・・

 

夫は、「おれ、先回りして水槽横の席を予約してくる」と走り去り・・・

 

私は、今回が4回目だからいいようなものの、他を見る余裕はいっさいなく、

父をガードし、

正確には、父の電動車椅子が人にぶつからないようにまわりの人をガードし、

ジンベイザメのいる水槽に無事到着。

 

そこで、ようやく顔をあげて、 

「おー、見ごたえあるぅ!!」

 

同じ場所にいても、

ひとりひとりがまるで違うものを見て、違う体験をしている。

別世界を味わっているんだなぁ…とつくづく感じました。

  

それでも外に出てからは、

「ものすごい人だったね」

ジンベイザメとマンタ、迫力あったね」などと

共通の話題を口にして、つつがなく観光を終了したのでした。

 

 

もしかしたら、

私たちは「みんな一緒」をよしとして、

実は、ものすごくまわりに合わせて生きているのかもしれませんね。

 

うるわしく表現すると、

「"気遣い" があるところに平和がある」ということになりますか。

 

この "気遣い" をサラリとやる秘訣は、

「ひとりひとり、感じていることは全然違って当たり前」と

はなから腹をくくっておくことです。

 

すると、言い合いにならないし、あっさり譲ることができますよ。

これ、実体験…

 

パートナーや恋人や親友も同じです。

つい「一緒だろう」と思いがち(思いたいもの)ですが、

違っていたとわかってガッカリした経験、ありません?

 

「ひとりひとり、感じていることは全然違って当たり前」を前提にすれば、

「あなたは今どう感じてる?」と素直に聞けます。

で、

一緒だったら、とってもうれしいし、

意外な答えが返ってきたら、

その分、相手への理解を深めることができます。

 

意外なことは、

感じ方にしろ、出来事にしろ、自分が想像もしてないこと…なわけだから、

それをいちいち「正そう」なんて考えないで、

 

全部、「ほー」って、おもしろがることにしたらいいんです。

私はできる限り、笑い飛ばしちゃおうって思いました。

そうすれば、自分自身が平和でいられるから。

 

 

 家族はいつも、

 磨き抜かれた鏡のように「私の内面」を映し出します。

 無意識のうちに、

 こちらの在り方を反映した言動を返してくる、ということ。

 それは、ありがたくもあり、こわくもある・・・

 

 

今回の親子旅は、一事が万事こんな調子で、

私は「ほー」の連続でしたが、

「なんでー!?」とイライラすることも、

自他を責める感情を抱え込むこともなく、

家族との時間を楽しく過ごすことができました。

 

沖縄に来る前、

「飛行機に乗るのも、これが最後だ」と言っていた父が、

「また来てやらな、いかんな」と帰りの機中で言ったとか。。。

楽しかったようで何より。

元気で、ガッツがあって、子孝行な親です! 

 

今さら・・・と思うことをやる!

沖縄交響楽団のコンサートに行ってきました。

楽団員は、好きな楽器を趣味で続けてきた人たち。

職業も年齢もさまざまです。

 

この楽団の指揮と指導に当たっているのが、私の友人のご主人なんです。

 

毎年行っている定期コンサートは、今年で62回、

初回から参加しているという女性奏者は、な、なんと80代!

その威風堂々としたと演奏ぶりに、めっちゃ胸を打たれました。

 

シニアとお見受けする楽団員は、他にも大勢いました。

みなさん緊張した面持ちでしたが、あふれるような喜びをたたえて、

(そりゃそうだ。練習を積み重ねて迎えたお披露目の日だもん)

私は思わず、

「よかったね、好きなことをずっとやってこられて。かっこいいよー!」

と叫びたくなりました。(*'▽')♪

 

 

私のまわりには、人生の半ばを過ぎて、

「ずっとやりたかったことにチャレンジするぞー!」

という人が、なぜか多い。(笑) 

まあ、私もその一人なので、類は友を呼ぶのかも。

 

でね、

「今さら・・・」という観念に縛られずに生きようとする人が、

着実に増えつつあるな…と感じています。

 いいことですよねぇ。

 

と書いていますが、以前は(もっと若かったのに!)

「今さらできない」とか、

「今からはじめて、なんになるっての?」と考えて、

本当はやってみたいのにあきらめてしまったことがありました。

 

今さらそれをしてなんになる……は、頭で考えること。

それでも本当はやってみたい……は、心が求めること。

 

言い方を変えれば、

前者は、常識、倫理観、世間体、損得勘定に基づき、

後者は、夢、ワクワク感、喜び、生きがいに基づきます。

 

人生とは何か、生きるとは何か…

という価値観の違いが、そのまま両者の違いになって表れるんですね。

 

 

私たちはずっと、支配する側から都合のいいように、

「社会性があって生産性の高い行動がよい」

という価値観を刷り込まれてきました。

 

その結果、「個人的にやってみたいだけのこと」は、

「時間とお金の無駄遣い」と思わされてきたんです。

 

でも、これ、勘違いですよ~~!

 

イキイキ、ワクワクして生きられなかったら、

人生が終わるときに後悔するのは、自分自身です。

 

なんのための人生か、

その答えは、「自分を生き切るための人生!」

と、私は声を大にして言いたい。

 

自分がやってみたいことをどれだけやれたかが、

「我が人生に悔いなし」という満足感と、

「思いきり生きた、おもしろかった」という歓喜をもたらすのです。

 

 

もし、今あなたが、

がまんとあきらめの中で、つまんないナ…と感じて生きていたら、

どんな小さなことでもかまわないから、

社会性や生産性が乏しくてもかまわないから、

 

それをやっている自分をイメージすると、

なんか胸がときめく…ということに、

勇気を出して挑んでみませんか?

 

お金や体力や時間の心配をするのは、エゴの仕事。

それをしてなんになると考えるのも、エゴの仕事。

 

それに心をとられないで、

ささやかな楽しみを、ぜひ自分に与えてあげてください。

 

あなたが「よし、やってみよう!」と決めると、

あなたの心に希望の灯がともるでしょう。

小さくても確かな、そんな喜びの炎を感じてほしい。。。

 

 

えっ、私ですか?

これからやってみようと決めたことはあるのかって?

 

ありますとも!

「ゆう琴」という竪琴を自分で作り、奏でること。

(だれにも聴かせず、一人ひそやかに…むふふ)

 

参考までに「ゆう琴」とは、

どの弦を弾いてもきれいなハーモニーが響くように調律できるので、

決まった弾き方がないんです。

早い話が、練習の必要がない。(コレ決め手。笑)

楽譜の世界から離れて、心の趣くまま、自由に奏でることができるという。

 

そんなお手軽で、壮大な音の世界に挑んでみまーす!!

 

今見えているままを、そのまま見る。

沖縄へきて初めての秋。

昨日、今日と雨でしのぎやすい。

最高で22度くらい。

こっちの人は「肌寒い」と言う。

明日はまた夏日に戻ってしばらく続くそうな。。。

 

 昨日よりどうだとか、例年よりどうだとか…

気候に限らず、私たちは何でも、

「比較する」ことで自分や物事の状態を認識します。

 

モノの値段だって、人の好感度だって、自分のデキだって…

私はあの人と比べてここが勝っているとか、劣っているとか、

いつも比較して「いい・悪い」を判断しますよね。 

 

人間という生きものは、

人の目を通して、自分自身を知ると言われますし、

相対的な世界に暮らしている以上、

何かと何かを比べるのは当たり前、やむを得ないことなのかもしれません。

 

でもね、

比べればわかるんだからいいじゃん、と思ってしまうと、

相対的にしか物事を見ない自分で、ずーっと生きていくことになります。

 

それってもったいないな、と思うんですよ。

 

絶対的なものが存在するのに、それを知らずに死んでいくなんて。

その絶対的な世界に、本来の自分がいるというのに・・・

その絶対的な世界に、魂は帰還するというのに・・・

 

絶対世界は認識できない、と思っている人にはむずかしいだけで、

少しも不可能なことではありません。

そこに意識を向け続ければ、必ず何らかの「気づき」が訪れて、

感覚でわかるようになっているからです。

 

だって、もともと自分がいたところなんですもの。

 

そのとき、

物事を比べることにまるで意味がないことを実感するでしょう。

そして、

自分という人間は、この相対的な世界で唯一のキャラなんだ。

このキャラには、オワリがあるけど、

今世このキャラを生きたイノチは、永遠に在り続ける…

…ということを叡智として知るんですね。

 

私たちはみんな、

「今の自分」というキャラを体験中なんです。

比べて落ち込むのも、悲惨な気分になるのもOKですが、

それは〝怖いもの見たさ〟を楽しむつもりならば。。。

 

もし、そんなことは望んでいないなら、

「今の自分」をそれ以外のモノと比べるのはやめましょう。

自分とそれ以外のモノすべて・・・

大元をたどれば、そこにあるのは「ひとつのイノチ」だけなのです。

 

この絶対世界の真実を、一度でも垣間見たら、

比較して心を悩ませるより、

今しかない、今しか触れ合えない事柄に心を燃やしたい!

 

目の前にいる人や自分の〝イノチの表現〟を、

ただあるがままに受け止めよう、すべて受け容れよう!

と思うはず。

  

自分をほかの人や過去の自分と比べないと、

芋ずる式に浮上する劣等感・後悔・屈辱感におそわれなくてすむので、

本当にストレスが激減します。

  

これが安楽のはじまり。

安楽は、宇宙の在り方そのものです。

 

宇宙的な人って、今見えているままを、そのまま見て、

いっさい「比べない」人のことなんです。(*^^)v