ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

断捨離(だんしゃり)

ここ数日、何をしていたかといいますとね、、、

 

引っ越しの日取りが決まってからあわてないように、

まずは仕事部屋を整理しようと思い立って

「断捨離」に着手したんです。

 

だけど、

とてもじゃないけど、

ただいま断捨離中! なんて言えません。(>_<)

 

むかし書いた原稿の箱を、ひとつ開けては読みふけり、

もひとつ開けては、「おー小説もあった」と

また読みふけり・・・

まったく片付かないまま、むしろ余計に散らかった状態で、

ときが無情に流れていきました。

 

いやあ、まいった、まいった。

 

過去の自分の一部と思うと、葬ることができなくなるのか…

それとも、

過去の原稿を読んで、ちっとは成長したと安心したいのか…

と、

はかどらない言い訳を並べてもせんないことなので、

心の中を探ってみると…

 

過去に未練はないものの、妙になつかしかった。。。

 

過去の自分が、他人みたいで、別人のようで、

「うんうん、よくがんばったね」みたいな感覚だったんです。

  

写真もそうですが、

自分のストーリーに執着すると廃棄できなくなるけれど、

心が「いまここ」に戻ると、

もう必要じゃなくなって、捨てることができるのかもしれません。

 

 

さて、これから取り組むのは、衣類と小物。

「もったいない」「いつか使うときがあるかも」・・・

という感情と戦うとヘロヘロになるので、

(何度も経験ずみ…)

 

捨てるものを選ぶより、

着たい、持ちたい、と思うものだけを選ぶ。

という線でいってみたいと思います。

(自信はないけど…) 

 

断捨離は、もういらない感情との決別! 

心の在り方から、シンプルライフをはじめよう!

 

はいはい、わかっていますとも。

 

でもねぇ、

問題は、どうしたら迷わずに破棄できるかよ、と悩んでいたら、

書類のあいだから、こんな走り書きがハラリ・・・

 

『もし問題が解決できるなら、なぜ悩む。 

 もし解決できないなら、悩んでなんになる』

         ―チベット仏教の教え「シャンティディバ」―

 

わぉ! コレできすぎじゃない!?

ウケちゃいました… (^▽^;)

 

日記風 つぶやき

私は、自分の内側から離れることはできない。

 

自分の内側にあるものが投影された世界を、

現実として体験するのが、私の人生だ。

 

内側には、いったいなにがあるんだろう…

 

複雑な心? 

 

複雑にしているのは、だれ?

 

それは、私。

いつも一瞬の感情をつかまえて、

長い物語をしゃべりはじめるから。

 

その感情は、風が吹き過ぎるように、

とっくに過ぎ去っているはずなのに・・・

風に当たった痛みの記憶が、

幻影のように残っているだけなのに・・・

 

私は、その幻影に昔話をくっつけたり、

ほかの人と程度を比べたりして、

これでもかと気力をなえさせる物語を紡ぎ出す。

 

そんなバカげたことは、もうやめたつもりだったけど、

私の観念はそうとうしぶとい。

油断すると、

今度は「観念を消すべき」という観念にはまり込む。(-_-;)

 

 

さあ、さあ、自分の内側にある、

もうひとつの「離れられないもの」に意識を合わせよう。

 

目を閉じて、大きく息を吐いて、体を感じるんだ。

そうやって、自分の内側に入っていく。

深く、もっと深く・・・

 

観念や感情を超えたところに向かうために。

 

静寂とやすらぎだけがある、私不在の場所へ。

 

そこには、別の宇宙がある。

 

見えない次元で息づいている、

「ひとつのイノチ」につながって、“本来のワタシ” に帰ろう。

 

 

と、ひとりごとをつづりながら、

書いては消し、また書いては消し・・・(>_<)

そんなときもあるヨネ、と開き直って、このままアップします。 

 

トホホのときは・・・

頭人間から、直感人間へ!

さらば、我が段取り人生~~~!!

 

と叫びたくなる。

 

叫びたくなるということは、

まだまだ、段取り先行で頭を使って、

気が滅入っている証拠っす。トホホ

 

だって、

さらば、太めの自分~~~!!

と叫びたくなるのは、

やせられなくて気が滅入っている証拠でしょ。

 

本当にやせたら、

気にもならないし、叫ぶこともないでしょう。

 

 

さて、そんなトホホのときはどうするか・・・?

 

かつての私なら、

激しく自分を責めたでしょうねぇ。

何かというとすぐ「情けない」って思いましたから。

 

ちょっと前の私なら、

「まいっか」ですませたかも。

何事も「いい/悪い」で判断しなくなりましたから。

 

で、現在の私はというと、

「おー、よしよし」と滅入った心を抱きしめて、

そんな体験をしている自分に、ただ気づいている・・・

 

もう、自分を責めたり、

出来事と自分を分けなくなった代わりに、

自分の体験を “全体”(ソレ)の表れのひとつ

と感じているんですね。

 

 

私たちは普通、「自分が○○してる」って思いますよね。

でも、ホントは自動的にさせられている…としたら?

“全体”(ソレ/本来のワタシ)が、

ひとりひとりを通してすべての体験をしている…としたら?

 

今の私と、これまでの私の違いは、

そのことに気づいているか、いないかだけなんです。

 

言葉にすると、ひえーっと思ってもわかりにくい?…(-_-;) 

 

でも、この違いは大きくて、

気づいて以来、私の辞書から

「思い悩む」「不安におびえる」が消えました。

 

人生は自分のものじゃない、とわかったから。

自分のものと主張する “私”がいない、と気づいたから。

それが覚醒です。

 

そのとき、私は “全体” とひとつでした。

 

かたや、現実世界には、

物語の続きを生きている私がちゃんといて、

やりたいこともあれば、ほしいものもあります。

そこに、

「“全体” に気づいている意識」が加わったんですね。

 

例えれば、

お正月に、普段とおんなじことをしていても、

「今は “お正月”だ」と気づいている自分がいませんか?

そんな感じ。

 

えっ、まだわかりにくい?…(^_^;)

 

それでも、とにかく、あなたは “全体” の表れなんです。

いつか、必ず思い出しますよー! 

 

ザワザワを 一刀両断!

「静けさ」という文字が目に入ると、

それが今心にあるか・・・と振り返るのが私の癖です。

 

「静寂」も同様、シーンと静まり返った感じ。

「静謐」(せいひつ)は、より静かで安らかな感じ。

 

心が静かということは、落ち着いているということです。

でも、心はたいていの時間、

ああでもない、こうでもないと騒がしいものですよね。

 

だからこそ、

落ち着く(頭に上った気が落ち丹田着く)時間を設けて、

心のザワザワを一刀両断、頭を空っぽにします。

 

それが癖になるほどしつこくやり続けるのは、

「静けさ」が、「いまここ/本来のワタシ」に帰る

必須アイテムだからです。

 

 

一休禅師が15歳のときに詠んだ、こんな歌があります。

 

―― 有漏路より 無漏路へ帰る 一休み

    雨降らば触れ 風吹かば吹け ――

 

有漏路(うろじ)とは、思考にまみれた煩悩の世界。

無漏路(むろじ)とは、思考から離れて「いまここ」に落ち着くこと。

「いまここ」でひと休み中(の私が、一休)ですから、

現世の苦労や災難(雨風)など、へっちゃらです。

 

なんとまあ、清々しい心境でしょうか。

もう読むだけで小気味よくなってワクワクしちゃいます…

 

 

この世のわずらわしい事柄は、人生から消えません。

文句を言うと、心はもっとザワザワします。

このザワザワが、心身を疲れさせて、病にまで追い込むんですね。

 

だから、日に何回か、

意図的に思考を中断して、心を落ち着け、

ひと休みすることはとても大切です。

 

心身を休ませるには、瞑想や坐禅がもってこいなんですが、

いつでもどこでもできないので、

もっと簡単な方法を紹介しましょう。

ひと休みするだけなら、これでイケます。

 

ひとつは、

深呼吸を3回くり返す。

簡単でしょう? 

ただし、吐くときには、

苦しい~~ もう限界~~ と思うまで、

息を吐き切ることがコツですぞ。

 

もうひとつは、

「フリーズ!」を合図に行う、瞬間芸です。

体の動きと呼吸を、その場で3秒止める。

すると、思考も止まるから。

その静けさを味わってください。

 

 

一日のうち、ほんのわずかな時間でも、

思考の連鎖から解かれて、アホになりましょう。

 

そうやって心に静けさを取り戻すたび、

そのときのイライラとウツウツに、さよならできるから。

 

あなたが「よし、やってみよう」と決意すれば、

それは自分へのやさしさだから、

頭はほぐれ、心はホッとして、きっと元気を回復してくれますよ。 

 

お花見の巻

名古屋に来ています。

桜、満開!

お花見、大好き!!

 

風に吹かれてハラハラと花びらが舞うのをみると、

もー、たまりませんゎ。

 

そんな風景を詠んだのでしょうか、こんな和歌があります。

 

――世の中に 絶えて桜の なかりせば

  春の心は のどけからまし――

 

(世の中に桜なんてなかったら、

 いつ散ってしまうのか…あぁもう少し…と気をもむこともないのに…)

 

在原業平(ありわらのなりひら)がこの和歌を詠んだのは、

なんと今から1000年前。

日本人って、ちーっとも変わってないんですねぇ。

 

同席した人の返歌が、またいいんですよ。

 

――散ればこそ いとど桜は めでたけれ

  憂き世になにか 久しかるべき―― (詠み人知らず)

 

(散っていくからこそ、桜はすばらしいのです。

 つらい世の中に、永久に変わらないものなどあるでしょうか…)

 

在原業平は、「はかなく美しい桜の命を惜しむ気持ち」を詠み、

その人は、「桜の命は短いからこそ価値がある」と詠みました。

 

その人が詠んだ返歌を、もう一歩踏み込んで解釈すると…

 

(どんなに願っても、形あるものは必ず滅び去っていくのが世の定め。

 だからこそ、今精一杯咲いている桜に、かけがえのない命を感じるのです)

 

となるでしょうか。

私の好きな句に、良寛禅師の一句があります。

 

――散る桜 残る桜も 散る桜――

 

(散っていく桜を見ている桜の花も、いずれは散る定めなんだよ)

 

桜の花が一つ残らず散ってしまうように、

いつかは、私たちがこの世を去ることは決まっています。

生に限りがあることを深く自覚して、

今この瞬間を、大切に生きていきましょう。

 

良寛さんは、そんなことを伝えたかったのではないでしょうかね。

 

お花見をしながら、

平安時代歌人に思いをはせたり、

江戸時代の禅僧に思いをはせたり・・・


うららかな春の日に、

つれづれなるままに。。。。(^^)/ 

 

「私らしさ」はいらない

「私らしく生きたい!」

ずっと、そう思っていました。

 

 胸の奥では、

「私らしさってなんなんだろう?」

と戸惑いながら・・・

 

 

子どものころは、

「~してはダメ」としょっちゅう叱られて、

自分の好きに振る舞えなかったら、

好きに振る舞うことにあこがれました。

 

大人になり、

どのように振る舞ってもいい立場になったら、

急に人の目が怖くなって、

自分がどう映るかを気にするようになりました。

  

「いい人でいたら、まわりから好かれるかな?」

「できる自分を見せれば、認めてもらえるかな?」

「ピエロになって笑わせたら、人気者になれるかな?」・・・

 

理想の自分を目指すうち、

「怒ってはいけない」「もっと優秀にならなくちゃ」などなど、

いろんな観念で頭の中がいっぱいになりました。

 

心の中はというと、

 これって、本当に私らしいの?

 ちがう。だって、しんどいもん。

 本当に私らしく生きられたら、

 絶対苦しくないはず! もっと楽しいはず!

 

心は一生懸命、SOSを送っていたんですね。

それを無視して・・・心が悲鳴を上げて・・・ついにパンクして・・・

大切なことに気づかされたのです。

 

 人が「あなたらしい」と支持することは、

 あくまでもその人の見方と意見だから、

 期待に応えようとすると、しんどくなるよ。

 

 自分が「私らしい」と掲げたことは、

 観念が作り上げた理想の自分だから、

 とらわれると、心が自由でなくなるよ。

 

 「私らしさ」なんて、いらないんだってば! 

 

そんな心の声にしたがって、

私は「自己イメージ」をかなぐり捨て、

「ありのまま」の自分でいる!と心に決めました。

 

とはいっても、

「~であるべき」という長年の思考癖はしぶとく、

今の自分をすぐ否定しようとします。

 

そのたびに「ありのままの自分でOK!」と思い直すうちに、

弱音を吐こうが、どんくさかろうが、

偽らない素の自分がいとしくなっていき・・・

 

自分を愛するって、こんなに自然なことだったんだと発見!

 

心がパンクしたとき、

ホントしょうもない私でしたが、

それでも愛されている…無条件で愛されている…

と知って、前を向くことができたんですね。

 

だれから? と思うでしょう。

宇宙からです。 神からです。 本来のワタシ からです。 

 

あなたも、私も、すべての人が等しく、

無条件の愛によって生かされているんですよ。 

 

「そんなこと信じられない!」と反発しても、

大丈夫、まるっと愛されています。

 

無条件の愛を感じたとき、こんな思いが胸をよぎりました。

 「私らしさ」にこだわるのも自由。

 「ありのまま」を選ぶのも自由。

  だから常に問いかけなさい。

 「どんな私を体験したいのか?」と。

 

浮かんだ答えは・・・「自分を自然に愛せる私」でした。

 

今は気軽に、ニューバージョンで問いかけます。

「どの私でいく?」 (*^^)v

 

自分の正体

「あなたはボクの太陽です!」という台詞を、

恋の告白をするときに男性がよく言っていたころ・・・フルっ (笑)

 

「あなたは太陽のような人。ボクをその光で温めて…」

「ボクはあなたという光がないと、生きていけない…」

たぶん、そんな熱い思いを伝えたかったんでしょうネ。

 

私たちが「心を温めてくれる光がほしい」と願い、

「光になってくれる人を見つければ幸せになれる」と信じ込むと、

「光探し」がはじまります。

 

でもね、

光と信じて、恋人にすがっても、だれかを崇拝しても、

真の 安らぎは得られないと思います。

真とは、永遠という意味。

 

これだと思った光が目の前でしぼんでいくのを見て、

「違った・・・」と、失望感を抱くのが関の山でしょう。

私がそうでした。

 

私は、光明(暗闇を照らし出す光)を求め、

自分に光明をもたらしてくれる人を探して、

探究しまくっていた時期がありました。

 

失望し、また探究し、また失望して、また探究・・・

とうとう探すことに疲れ果てて、

「やめ、やめ、もう全部やめー!」と、

降参したそのときでした。

 

「な、な、なんと、自分が光明だった…」

という気づきを得て、

自分の外に求めるものなど何もないことを知ったのです。

そして、長かった探究の旅が終わりました。

 

私たちは、ひとり残らず光明であり、光源なんですよ。

光源とは、幸せの源、愛そのもの。

 

その光源が、なんとか幸せになろう、愛になろうとしても、

最初からもうソレだから、なりようがないんですね。

 

 

 

お釈迦様は、『自灯明』という言葉を残されました。

 自らを光とし、自らを拠り所とせよ。

 ほかのものに頼ってはならない、と。

 

 自分が暗闇を照らし出す光であることに目覚めれば、

 暗闇が幻想とわかる。

 つまり、真理がわかる、と。

 

そこに至る道は、

自分の外にあるのではありません。

自分の内へ内へと深く入っていく道。

深く入っていくと、

最後に宇宙に突き抜ける、という摩訶不思議な道なんです。

 

 

 

もしもですよ。

「あなたはボクの太陽です!」と言われたら、

舞い上がって、「あなたも私の太陽よ!」なんて応えず、

「あなたも、私も、太陽。ホントは光なのよ。知らなかった?」

ってね。

あー、言ってみたい! (*´▽`*)