ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

トホホのときは・・・

頭人間から、直感人間へ!

さらば、我が段取り人生~~~!!

 

と叫びたくなる。

 

叫びたくなるということは、

まだまだ、段取り先行で頭を使って、

気が滅入っている証拠っす。トホホ

 

だって、

さらば、太めの自分~~~!!

と叫びたくなるのは、

やせられなくて気が滅入っている証拠でしょ。

 

本当にやせたら、

気にもならないし、叫ぶこともないでしょう。

 

 

さて、そんなトホホのときはどうするか・・・?

 

かつての私なら、

激しく自分を責めたでしょうねぇ。

何かというとすぐ「情けない」って思いましたから。

 

ちょっと前の私なら、

「まいっか」ですませたかも。

何事も「いい/悪い」で判断しなくなりましたから。

 

で、現在の私はというと、

「おー、よしよし」と滅入った心を抱きしめて、

そんな体験をしている自分に、ただ気づいている・・・

 

もう、自分を責めたり、

出来事と自分を分けなくなった代わりに、

自分の体験を “全体”(ソレ)の表れのひとつ

と感じているんですね。

 

 

私たちは普通、「自分が○○してる」って思いますよね。

でも、ホントは自動的にさせられている…としたら?

“全体”(ソレ/本来のワタシ)が、

ひとりひとりを通してすべての体験をしている…としたら?

 

今の私と、これまでの私の違いは、

そのことに気づいているか、いないかだけなんです。

 

言葉にすると、ひえーっと思ってもわかりにくい?…(-_-;) 

 

でも、この違いは大きくて、

気づいて以来、私の辞書から

「思い悩む」「不安におびえる」が消えました。

 

人生は自分のものじゃない、とわかったから。

自分のものと主張する “私”がいない、と気づいたから。

それが覚醒です。

 

そのとき、私は “全体” とひとつでした。

 

かたや、現実世界には、

物語の続きを生きている私がちゃんといて、

やりたいこともあれば、ほしいものもあります。

そこに、

「“全体” に気づいている意識」が加わったんですね。

 

例えれば、

お正月に、普段とおんなじことをしていても、

「今は “お正月”だ」と気づいている自分がいませんか?

そんな感じ。

 

えっ、まだわかりにくい?…(^_^;)

 

それでも、とにかく、あなたは “全体” の表れなんです。

いつか、必ず思い出しますよー!