ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

みんな違うからおもしろい

人生を体験する方法は、ひとりひとり違います。

 

たとえば、

「イタリアンが食べたいね」と、友人と意見が一致して、

店内に一歩足を踏み入れたとき、

「相手も自分と同じ景色を見ている」と思うでしょう?

それが違うんです。

 

かつて、こんなことがありました。

たまたま入ったレストランがすいていたので、

「ラッキー! いい席に座れるね」と喜んだら、

「このお店、こんなにすいてて大丈夫?」と心配そうな友。

 

注文したスパゲティをひと口食べて、

「んーおいしい! 幸せ」と目を細めたら、

「値段が値段だもん、当然よねぇ」と固い表情の友。

 

同じお店で、同じものを食べて過ごしながら、

ふたりはまったく別の世界にいたんです。

 

食べるときも、見るときも、会話するときも・・・

恋愛中も、病床でも、宝くじが当たったときも・・・

私たちはそこで自分が意識を向けたものを、

自分の人生として体験するんですね。

 

以前の私は、

「好きな人と心がバラバラなのはさみしい」と思っていたので、

自分の気持ちをムリに合わせたり、

「これって絶対こう感じるよね!?」と半ば強引に共感を求めたものです。

 でも…

これは、あとで失望するパターンなんですよネ。。。(-_-;)

 

お蔭さまで、今は、

「私はこう感じるけど、どう思う?」と、

はなから「違って当たり前」というスタンスなので、いたって平和です。

 

 夫婦でも、恋人でも、親子でも、親友でも、

「かならず違う」と承知しているほうがうまくいく気がします。

すると、

「ずれてる!」「合わない!」とムカつくことも、

相手の意見をコントロールしようとムキになることもなくなって、

お互いの違いを素直におもしろがれるから。

 

でもって、

私の意識の根底にあるのは、「みんな同じ!」です。

「えっ? みんな違うって言ったばかりじゃない」と思いますか?

 

はい、

「個性豊かに、それぞれの人生を好きなように体験している」

という意味では、みんな同じなんです。

 

私たちは、細分化して“地球で人間を体験している”ユニークな存在。

違う個性を携えていますが、構成要素は同じです。

ひとつの生命エネルギーの表れ(バリエーション)が、個性なんですね。

 

そこに、上下や、優劣はありません。

あなたも、私も、あの人も・・・

ただ、今回の人生で体験したいものが違うだけなんですよ。

 

 

今、冬のオリンピックをやっていますが、

自分とはまるで違う個性で人生を体験している仲間に、めっちゃ感動します!

同じ存在だからこそ、ホントがんばってる!と尊敬しないではいられません。

  

この世は「過程」を楽しむところ

私たちは、自分の欲求を満たすために生きています。

 

「あれが食べたい」という気持ちを満たそうと、お店に足を運び、

「あれを手に入れたい」という思いを叶えるために、お金を貯め、

「将来はこうなりたい」という夢の実現を目指して、がんばります。

 

そうやって欲求をひとつ、またひとつと満たすことで、

ちょっと満足して、うたかたの喜びや安らぎを得ているんですね。

 

「認められたい」「成功したい」「結婚したい」・・・

程度の差こそあれ、全部そのためだよなぁ…と思ったとき、

私はあることに気づきました。

 

この世には絶対的な喜びや安らぎはない。

諸行無常

永遠に変わらないものなど、3次元にはもともと存在しないから。

 

それがあるのは、自分を超えた次元だけ・・・

 

ということは、

「この世という物質次元は、過程を楽しむところなんだ!」

と思ったんです。

 

「目標を立てて何かを手に入れる」ことを目指すと、

(私もずっとそうやって生きてきましたが)

手に入れるまで、みじめさや焦りやむなしさがついて回ったり、

忍耐が続いたりして、うつうつとしてきますよね。

 

そうではなく、

「発案から、手に入れるまでの過程を楽しむ」ことを、

最初からゴールにしちゃうんです。

 

結果が、ゴールじゃない。

結果自体は、問題じゃない。

むしろ結果は、次の過程(楽しむためにある)のスタート!

 

そう割り切ったら、

うまくいかなかったらどうしよう…と結果にビビる気持ちが失せて、

なんでもやってみようという勇気がわいてきました。

 

自分はなんて欲深いんだろう…と手を焼いていた終わりのない欲求が、

「過程を楽しむための材料」に変わって、

成し遂げなくてはいけないと思うしんどさが消えました。

 

すると・・・

 

自分の人生が、いつどういう状態でタイムオーバーになっても、

はた目には、中途半端に映っても、あと少しに見えても、

「これで私は人生を愉快に生き切れる!」

という自信みたいなものがわいてきたんです。

 

物質次元は、ワクワクしながら過程を楽しむところ。

楽しんだ材料や楽しんだ事柄は、体とともにすべて置いていく。

 

突然の沖縄移住は、たぶんこんな気持ちから生まれたんだと思います。(^▽^;)

 

流れに任せる

もう、沖縄に住んでる気がして…

実際、どこがいいかと沖縄へ下見に出かけ、

「こんな家を見つけたら連絡してね!」と

お願いして帰ってきました。

 

お願いしたのは、不動産屋ではありません。

はじめて会った人。

(魂レベルでは再会ですが・・・)

縁に導かれるまま、住みたい土地にたどり着き、

そこで暮らす人とめぐり会いました。

 

したがって、

次はいつ、どういう形で南国へ旅立つのか、

ぜーんぜん、わかりません。(^▽^;)

 

 

「直感で沖縄移住を決めました。直感ってなんなんでしょうね?」

と、前に書きましたが、

私にとって直感は、もはやこれしかない司令塔なんです。

直感が「イエス!」といったら、キマリ!

「ノー」といったら、ごめんなさい。

 

そうなったのは・・・

意識が覚醒して、心配性&理屈やの自我から解放されたときから。

 

それまでも、直感は大切にしてきたつもりでしたが、

なんせ、自我のちょっかいがやかましくて、

よく心が揺れました。(苦笑)

ま、それだけ自信もなく、不確かだったわけです。

 

今は、自我のちょっかいが減った分、

悩んだり考えあぐねることがなくなって、とてもラクチンです。

 

ひょっとして、あなた、

「直感にしたがってうまくいかなかったらどうするの?」

って、ふと思いましたぁ?

 

「うまくいく」は、

思いのほかすんなり、人よりうまく、という感覚ですよね。

その逆が「うまくいかない」だとしたら・・・

 

「人生がうまくいかない」という観念が、今の私にはないので、

たとえどんな結果になっても、

「ほう、これを超えるのね」で終わると思います。

もちろん、うまくいったらキャッキャと喜びますよ!

 

いい悪いの判断って、じつは自我の独壇場なんです。

私は長いあいだ、自我と一緒に死ぬほど判断を下して、

自他を責めたり、焦ったり、浮かれたりしてきました。

 

そうした体験は、ゲップが出るほど十分味わったので、

もう“判断ごっこ”をする気はありません。

 

自分の直感を信じて、

流れに身を任せて、生きていきます。

 

それ以外、“本来のワタシ”とつながって生きる方法を知らないんです。

 

必要なときに、必要なことが起こり、

必要なところへ運ばれていくでしょう。

 

そこで自分ができることを、喜々として、精一杯やるだけです!

 

 

それが、『なるがまま』・・・

 

これは大好きな言葉で、とても温かい言葉なんです。

「なるようになるよ」という。

もちろん、あなたの人生も!! (*'▽')v 

 

お久しぶり!

白銀の世界が目にまぶしい。

南国から雪国に帰ってきました~~!

 

南国から戻ったといっても、

沖縄では、この冬ベストの寒さ…に遭遇し、

長野から着ていったセーターとダウンが役に立っちゃった。

という奇妙&貴重な体験をしました。(アハッ)

 

なんでも面白がることにかけては昔からチート自信のある私ですが、

最近はそれにプラスして、

「人生は常に、自分にとって最高のことしか起こらない」

と受けとめる要領を覚えたので、

寒さも、なんでそうなるの~ッというハプニングも、

全部笑い飛ばしてきましたぞ。

 

「常に最高のことしか起こらない」と受けとめる要領は、

とってもシンプルです。

だれにでもできます。

今すぐできます。

 

もし今、あなたが手の甲を針でチクッと刺されたら・・・

「イタッ!」となって、

その瞬間は、ほかのことはすべて吹き飛ぶでしょう?

 

これを意図的に起こすんです。

なんでそうなるの~ッと思った瞬間、

そう思った心に、チクッと針を刺して空気を抜く。

 

つまり、「いまここ」に意識を戻すんです。

 

すると・・・

針で刺したような「いまここ」の次元では、

何も起きていない(問題はない)ことがわかります。

 

問題だー!と叫んでいるのは、心だけで、

心はなんでもかんでもつなげて考えるのが得意だから、

「ああなるとこうなって、こうなればああなるかも…」

と、悩みはじめるんですね。

 

でもね、

そもそも深刻な問題なんてどこにもないんです。

すべての物事は粛々と、起きては終わっていく流れのようなものだから。

その過程で、

コインが転がるときみたいに、裏が見えたり表が見えたり…

しているだけなんですね。

 

それが人生なんだと承知すれば、

目の前で起きたことを、コインの裏だろうが表だろうが、

その場で、その瞬間、

まるっと受けとめることができるのではないでしょうか。

 

そうして、

チクッとそれだけを感じたときと同じように、

サブっ、アツっ、うまっ、すごっ、きゃー!

と、どの瞬間も無邪気に反応して、

今ここを、おもしろおかしく生きていったらいいと思います。

 

そのほうが、人生、ず~~~と楽しいよ!!

 

 

おー、沖縄下見旅の報告をすっかり忘れていました。(^▽^;)

その話は、次回に!

 

一歩、踏み出す

2月4日、立春は天のお正月だそうな。

なんたが新しい扉が開きそう・・・ワクワク。

 

だれもがニュー・サイクルに乗っかるこの日、

私は、沖縄に向けて出発します。

 

で、しばしブログが滞りそうなのでお伝えを。。。

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さて、話を戻して今回の沖縄行きは、

前半は遊び、(恒例のゴルフツアー)

後半は下見。

なんの下見かって? 

はい、私たちの新居です。

 

今年の目標は、

じつは、「今年中に沖縄ライフをスタートさせる」なのです。

 

どうしてそうなったのかというと、

なんと申しましょうか・・・ただの直感。(^▽^;)

 

昨年の暮れ、

ふいに「沖縄に住んでる」気がしたんですね。

覚醒して時間の観念がくつがえってから、

感覚が「いまここにすべてがある」バージョンになり、

ときどきそんなことが…

 

「わお、沖縄に住めるんだ」と思ったら、

無性にそうしたくなって夫と話し合い、

ちょうど予定していた沖縄行きに、下見を加えました。

 

沖縄のどこに住みたいのか!?

自分の内奥に尋ねながら歩き回ってきます。

それにしても、直感ってなんなんでしょうねぇ・・・

また報告します。

 

 

現在、私が住んでいる黒姫山のふもとは、

長野県といっても、新潟県境に位置する豪雪地帯。

すでに1mあまり、積雪があります。

私はとにかく雪景色が大好きで、

一面の銀世界はいくら眺めていても飽きません。

 

14年前、ここにはじめて木のおうちを建てました。

“終の棲家” のつもりでした。。。

 

が、なんということでしょう、今さら引っ越し?

山から海へ?

人間は本当にないものねだり…なのかもしれませんね。

はい、特に私が…

 

でも、これだから人生はたまらん、おもしろい、と思います。

直感と理性、

常識と自由気まま、

冒険とルーティーン、

みんな狭間で揺れながら、自分の人生を選択しているんです。

 

私の中に、ちょっと不思議な感覚があります。

すべては「なるようにしかならない」という確信めいたもの、

全部あらかじめ決まっているのかもしれない…という気がするんですね。

 

はたして、

すでに決まっているから、そうしたいと思うのか、

自由意志でそうしたいと思うから、実際にそうなっていくのか・・・

 

あなたはどう思いますか?

この話のつづきは、またの機会に。

 

人間スーツ

美容院に行ってきました。

バサバサと切り落とされて足元に散った髪の毛を、

なんとなく見ていて、ふと思ったこと。

 

「これはまだ私の髪? すでにお店のゴミ?」

 

数分前まで、私の一部として私を形どっていたけど、

あーぁ、掃除されちゃった・・・

 

と、そこにコーヒーが運ばれてきました。

ゴクンとひと口。

 

カップに残っているのはお店のコーヒーで、

胃に入ったコーヒーは、すでに私の水分。

 

そんなことを言いだしたら、

今吸った空気はだれのものだ、

この肺に入っているのは私の空気だ、

ということになりますよね。

 

何が言いたのかというと、

「私は危うい存在。あってないようなもの」

ということなんです。

 

私ってなんなの?と聞かれたら、

体ではないと思う、と答える人は多いでしょう。

 

じゃ心?と聞かれたら、

思考や感情は、空気と同じくらい出入りが激しいから、

心こそが私、と断定するのはちょっと・・・

 

そこに自我が登場して、目の色変えて主張します。

「私は、私の価値観で動いている!」

 

では、価値観は、絶対的なものでしょうか。

「価値観=思考の束=観念そのもの」

これも、吸ったり吐いたりする空気と変わらない、

うたかたのものなんです。

 

自我の仕事は、

このうたかたのものを「私!」と信じ込ませることなんですね。

 存在のパワーを強めたいんです。

 

自我を悪者扱いしているわけではありませんが、

自我を私と勘違いすると、

安心するな、まだ足りない、とはやし立てられて、

心は休まらないようになっています。

 

体と心と自我は、ワンセット。

この3セットは、この世を生きる“人間スーツ”に含まれている

借り物なんです。

 

この世を楽しむための幻のツールだから、

実体がない。

この世を去るときには、全部返却します。

 

ということは、

このセットを借りたのは、いったいだれ?

ということになりませんか。

 

それが私であり、あなたであり、彼であり、彼女です。

 

それをまとめて、というか、

借り主も貸し主も、もともとひとつだから、

ここでは “本来のワタシ”と呼んでいるんですね。

 

呼び方は「本来の自分」でも「ソレ」でもいいんですが…

実体は、「神聖な意識/エネルギー」です。

 

その “本来のワタシ”が、

いろんなタイプの人間を体験しながら進化しています。

 

その現れの一人が、今のあなたなのです。

髪を切っても平気なように、心や体が傷ついても、

本来のあなたは何も損なうものがない存在なんですよ。

 

人間スーツを自分と勘違いせず、3セットを余裕で活用して、

たった一度のこの人生を、思いっきり楽しみましょう!

 

座右の銘

生きることは、いろいろな物事とめぐり会うこと。

「言葉」もそのひとつですね。

 

自分の心にめちゃくちゃ響いた言葉に会うと、

「よし、これを “座右の銘”にしよう!」と思います。

 

そのとき心に沁みた言葉は、そのときの心情をバッチリ反映します。

 だから、

自分の成長にともなって、魅かれる言葉が変わったり、

また同じ言葉でも、解釈が深まることがあるんです。

 

私がこれまでの人生で、座右の銘としてきた言葉は、

もう笑っちゃうくらい、見事にそのときの精神状態を物語っています。

 

 

20代・30代は、「克己」でした。

 

 「自分の弱さ、汚さ、甘えに打ち勝て!」

  今振り返っても、「おー、疲れますこと。よくがんばった」と思います。

  これを、壁に貼っていたんですからねぇ。

  自分は弱くて汚くて甘い人間、と宣言していたようなものです。(-_-;) 

 

 

40代は、「自灯明」でした。

 

 「自分を頼り(灯り)として、先の見えない暗闇のような人生を歩いていきなさい」

  という意味の禅語。

  離婚直後の身としては、「人に寄りかかるような生き方をするべきではない」

  ととらえて、無性に心惹かれたわけです。

 

  でも…自灯明には、もっとすごく深ーい意味があったんですね。

 「自分の内側にすべて(悟り)がある。それを拠り所とせよ」という。。。

 

 

50代は、「脱苦」でした。

 

 「苦しみから抜け出せ! 自我を滅することがゴールだ~!」

  50歳で再婚、田舎暮らしをはじめ、本も書き、はたから見れば順風満帆、

  …だったんですが、ブログにも書いたように、

  脱苦を座右の銘にするほど、迷路にはまっていたんですゎ・・・トホホ

 

 「苦しみは、喜びを実感するための必須アイテム!」と言うこともできますが、

  そもそも人間は、たとえ恵まれた環境におかれても、

  それなりに苦しみを見出し、いつか超えることを夢見て生きていく…

  そんな生き物なのかもしれませんね。

  この習性は、「人生という夢から目を覚ます」まで続きます。

  

 

そして60代は、「自然法爾」 (じねんほうに、と読みます)

 

  自然に、水がそこしかないというところに流れていくように、

  もとより、おのずから、しからしむる・・・

 「あるがままにありながら、なるがままになる」という意味です。

 

  私は、長年自らを縛っていた観念から解放されたとき、

 「ありのままの自分で、天に自分を明け渡して生きる!」

  道はこれしかない、と理解しました。

 『ありのまま、なるがまま』というブログのタイトルは、まさにこれなんです。

 

 

さて、「たかが言葉、されど言葉」という表現がありますね。

 

言葉は、思考の産物、伝達の道具です。

したがって、

思考を超えた世界に重きを置いて、“本来のワタシ”を生きようとするなら、

その意味では・・・たかが言葉。

 

でも、

言葉は、使い手によって「言霊」というパワーを宿すことができる。

それで物事を引き寄せたり、思いを伝えたりできるんです。

その意味では・・・されど言葉。

 

平和で、心地よい方向に、心を誘ってくれる言葉を見つけましょう。

 

たとえば、自分を信じて進む勇気をくれたり、

自分はひとりぼっちではないと感じさせてくれたり、

人生はちゃんとうまくいくから心配ないと背中を押してくれる・・・

 

そんな言葉を、ぜひあなたの “座右の銘” にしてくださいね。