ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

修行という道

ちょっとお休みして、

福井県にある、曹洞宗大本山永平寺」に行ってきました。

 

永平寺は、1244年に道元禅師によって開かれた坐禅道場です。

開祖、道元禅師は、中国で学んだ禅の教えを広く日本に伝えた人。

今は180名ほどの修行僧が、古来の教えにしたがって生活しています。

 

もともと雪深い地域に、今年降った雪の量は尋常ではなかったようで、

ようやく落ち着いた2月下旬から新たな修行僧を30名ほど受け入れたばかり。

そんな事情で、「現在、体験坐禅は行っていません」と言われました。

 

うーん、残念!

で、雲水(修行僧の呼称)の生活する場をゆっくり見てきました。

 

かつて、広島の坐禅道場に通い続けた身としては、

僧堂(坐禅をする場所)をはじめ、建物や廊下に漂う凛とした静けさが、

なつかしくもあり、いとしくもあり、

心身が引き締まる思いでした。

 

実際に寒くて、心身が引き締まっていたのかもしれませんが(笑)、

雪が盛り上がった庭を囲むように回廊があって、

どこも外と同じ温度、暖房はまったくありません。

 

でも、雲水たちは、素足に草履。

衣もとても薄い。

そこから、すでに修行がはじまっているんですね。

 

そうやって厳しい修行に励む、若い雲水たち。。。

「真理を求める気持ち」がよーくわかるだけに、

その姿を見て、思わず涙があふれそうになりました。

 

道元禅師は「修行そのものが悟りである」と説きました。

静の修行が、坐禅

動の修行が、作務。

洗面、食事、お手洗い、入浴…起きているあいだは全部が修行。

雑念を入れず、何事もできるようになることが悟りなのだと。

 

以前の私は、雑念を入れずに座ることに必死になって、

それがなかなかできない自分を激しく責めたものです。

当時を振り返って思うことが、ふたつあります。

 

ひとつは、真理を求めない(執着しない)心の大切さ。

なぜなら、真理はすでに自分の一部として、

いまここにあるからです。

ここにあるということに、ただ気づくだけでいい。

求めれば求めるほど、自分を責め、真理から遠ざかってしまうから。

 

もうひとつは、自分には足りないものがあるという考えの誤り。

ありのままの自分を完全に受け入れたとき、

足りないものなど初めからなかったということ、

自分は完璧な存在の一部だったということがわかって、

心から安堵するでしょう。

 

そのとき、外に悟りを求める行為が終わるんです。

 

今の私に、「修行こそが悟りの道」という考えはありません。

もし、修行が我慢を必要とするならば、

我慢から悟りに至るとはまったく考えられないからです。

 

ただし、その人にとって、

修行が苦行ではなく、喜びと感謝の行であるならば、

いっさいの欲望から離れることができたら、

そのとき、自由の境地を得ることができると思います。

 

中国から帰国した道元禅師は、何を習得したのかと問われ、

「眼横鼻直」(がんのうびちょく)と答えました。

目は横、鼻は縦でしかないのだから、それ以外のことにこだわる必要がない。

すべて丸出しの真理に、あれこれ思いをめぐらさず、

ありのままを、ありのままに受けとめればいい、と言ったんですね。

 

 

あの日、私は永平寺の雲水に、

心の中でそっと手を合わせました。

 

この道を選んだ尊い志が、いつか必ず叶いますように・・・

あなたは、もうひとりの私です。

                   合掌

 

言葉にとらわれない

吉田拓郎のメロディで)

人間ーなんてララーㇻ  ラララ ラーㇻ~ ♪

 人間ーなんてララーㇻ ラララ ラーㇻ~ ♪

 

これを口ずさんでいた我が青春時代の、

メランコリーで危うい人生観がよみがえります。

 

そこで「ラ」を、「レ」に換えて歌ってみると・・・

 

人間ーなんてレレーㇾ レレレ レーㇾ~ ♪

 人間ーなんてレレーㇾ レレレ レーㇾ~ ♪

 

いきなりレレレのおじさんモードに突入、

人生を正面から笑い飛ばす元気がわいてきます。

 

あは・・・

何が言いたいのかというと、

言葉はイメージですよ、ということ。

心に渦巻くイメージを “音” にしたのが言葉なんです。

 

だから私たちは、

イライラしていたら攻撃的な音を放つし、

ご機嫌だったら包み込むような柔らかい音を出しますね。

 

ただそれだけのことなのに、

人間がややこしくて、やっかいなところは、

その音についてすぐ、

「きっとそうに違いない…」「ああなったら困る…」

と、あれこれ考えてしまうこと。

 

これが、苦しみのはじまりなんです。

 

音は、つかみ取らなければ自然に消えていくもの。

ピーポーピーポーも、そうでしょう?

ただの音として聞き流してしまえば、跡形を残しません。

でも、その音をつかみ取って、

「どうした?」「そういえばあのときも…」と、

あれこれ考えはじめると、憂うつな気分にはまるんですね。

 

人の言葉もそう。

何か言われて、「気に入らない」「不愉快…」と感じたときは、

自分がその音に引っかかって、そこに足止めされたときだから、

「あっ、つかんじゃった!」と思ったら、その場でスルーしましょう。

 

つかんだ音を放せばいいんですよ。

レレレ~ ♪ と口ずさむのもよろしいかと思います。(^_-)-☆

 

人の言葉に限らず、自分の言葉も同じです。

頭の中でグルグルするイヤな考えや、不安な言葉は、

同じ要領でスルーしちゃってください。

 

 

私たち人間は、起きている時間の大半を、

考えなくてもいいことや、考えても仕方のないことを、

熱心に考えて過ごしていると言われます。

 

思考は、観念のかたまり。

観念は、自我のかたまり。

どうでもいい思考は、自我にもてあそばれている状態なんですね。

 

それを音にしたのが言葉ですから、

気が沈むような音はさっさと流して、

一日のうちのわずかでも、思考から離れ、自我から離れて、

ややこしい自分から自由になりましょう!

 

そのために座禅や瞑想をすることは一理ありますが、

やり方を知らないと、思考から離れるのは至難の業なので、

レレレ~ ♪ と口ずさむ簡単な方法を提案しました。

 

そして「ガハハ」「ウフフ」と笑えば、

頭の中が、一瞬、空っぽになると思います。

それでOK。

きっと、あとは笑い飛ばせますよ。

 

最後に、

レレレのおじさんをバカにすることなかれ。

赤塚不二夫の名作「天才バカボン」に出てくるこのおじさんは、

無心で「掃除」をして悟りをひらいた、お釈迦様の弟子、

チューラパンタカがモデルなのだ。 ( ..)φメモメモ

 

時間から自由になる

 人生には「今」しかありません。

 過去や未来は、頭の中にある時間で、

 実際に生きられるのは「今」だけです。

 

 頭の中にある想念が変われば、

 過去の後悔や、未来の不安は一変します。

 

 あなたが「今」味わっていることは、

 過去の想念の結果であると同時に、未来を生み出す原因なんです。 

 大切なのは「今」だけですよ。

 

そういったメッセージを、これまで何回書いてきたことか・・・

伝えたいことは変わりませんが、

「今」に対するとらえ方が変わったので、今日はそれを書きます。

 

大切なのは「今」だけ……この場合の「今」は、

過去から未来に流れている時間の中にある「今」です。

本当はそうではなく、

 

 元来、時間というものは存在しなくて、

 「時を超えた『永遠のいま』があるだけ」なのです。

 

ウッソー! と思いますか?

 

「時を超えた」とは、時が止まっているのではなく、

「過去から未来に向かって流れている時は、最初からない」ということ。 

時間というものは、もともと人間が生み出した “観念” なんです。

 

かつて、統治する立場の人が、

集団生活を円滑に運ぶために暦というものを作って、

「我々共通の時間が、過去から未来に向かって流れている」

ということにしたんですね。

 

それが功を奏し、時間の観念が集合意識にしっかり刻まれると、

ただの決め事、「一つの方向に時間が流れている」という設定が、

揺るがしがたい真実に変わってしまったんです。

 

人間は、時間を絶対的なものとして、

頭も、心も、すべてを時間に捧げて生きるようになり、

ありもしない過去や未来にも悩まされるようになりました。

 

現代人は、分刻みのスケジュールを自慢し、忙しいことをよしとして、

(「忙」という字は「心を亡くす」と書きますが…)

それで心を病んでしまった仲間がこんなに増えても、

まだ生き方を変えようとしません。 

 

 もしも「もともと時間は存在しない」ということに気づいたならば・・・

と思わずにはいられません。

 

 

あなたは、ふと時間の感覚を忘れていたことはありませんか?

 

それって、時を超えて『永遠のいま』にいた瞬間なんです。

個を超えて、意識が拡大していた証なんですね。

だから、とても心地がよかったでしょう?

 

そこで「時間は存在しない、時間はただの観念だ」と気づけば、

きちんと社会生活は送るけれど、

人と約束した時間は守るけれど、

時間に自分を支配されることはなくなるでしょう。

 

イノチを『永遠のいま』に預けて生きられるようになりますよ。

『永遠のいま』は、「いまここ」「ソレ」と同義です。

 

私は、時間は観念と見抜いて以来、

「時間がない」「時間が足りない」「時間は限られている」

「もう間に合わない…」と息苦しくなるほど焦って生きていた自分から、

自由になりました。

 

あー、らくちん!

これでいいのだ~~~!! 

 

新生した自分を祝福しよう

朝、熟睡して目が覚めると、

昔は、「あー、よく寝た」と満足して伸びをしたものですが、

最近は、「あー、どっかへ行ってたな」と感じることがあります。

 

その「どっか」が、宇宙のどこなのかわかりませんが、

とにもかくにも、広がっていた意識がふたたび小さな体に戻り、

「人間スーツ装着!」となって目が覚めるんです。

 

隣で目を覚ました主人に、思わず、

「また会えたね!」と言ったこともあります。

なぜか「うん…」と答えました。(笑)

  

毎朝ベッドの中で、

自分が新生したことに、ささやかな感動と喜びを覚えるのは、

なかなかいいものです。

夜が明けて新しい一日がはじまることが、

少しも当たり前ではなく、とても新鮮に感じられます。

 

 

ところで、

「朝」という漢字は、「十月十日」(とつきとおか)と書くんですね。 

宇宙という母の胎内に十月十日宿り、

生まれてくる新たな時が「朝」である、という意味。

 

自分は毎朝、時とともに生まれ変わっている・・・と思うと、

ちょっと感動しませんか?

 

だれでも自分の子どもが生まれたときは、

「よく生まれてきた!」と心から祝福するでしょう。

なのに、自分が毎朝生まれ変わっていることには、

まるで無頓着 & 無感動なのは、どうしてなんでしょうか。

 

たぶん、

朝を迎えられることを「当たり前」と思っているから。

もしくは、

「今日の自分は、昨日の自分の続き」と思っているから。

 

どちらも違うんですよ。

 

毎朝目が覚めることは、決して当たり前ではありません。

「物事はくり返す」と考えるのは人間だけです。

なまじ記憶力があるために、(これもあいまいなものですが)

「私」が続いているように錯覚するんですね。

 

けれど、同じ朝も、同じ自分も、存在しません。

 

宇宙は常に動き続け、新しい存在を生成し続けます。

その中に人間も含まれる。

つまり、

私たちが生きることは、新生した自分に会い続けることなんです。

 

毎晩、頭を置いて(観念を忘れて)、

母なる宇宙に抱かれてどっぷり癒され、

毎朝、生まれ変わったような新鮮な気分で目覚める・・・

それはなんて素敵なことでしょうか。

 

朝、目が覚めたら、

「新生しました。ありがとう!」

そう言って一日をはじめてみませんか?

 

きっと、頬がゆるんで、

体の芯からふつふつとエネルギーがわいてきますよ。(*'▽')

 

一瞥体験がもたらすもの

一瞥体験のあと、胸が躍るような至福の状態がつづき、

しばらくすると、

ふたたびエゴイスティックな思考や感情がわいて、

「えっ、もとに戻っちゃうの?」とガッカリすることがあるかもしれません。

 

本人としては、「すごい体験をした。もしかしたら悟ったかも・・・」

と、いっとき浮かれるので、

その感覚が過ぎ去ってしまうのがたまらなく残念なんですね。

 

そこで、忘れられない一瞥体験の記憶にしがみつき、

「もう一度味わいたい!」とバリバリに執着し、

「修行が足りない!」とガンガン自分を追い立て、

それが “迷い”とも気づかず、終わりなき探究をはじめるわけです。

 

私がそうやって長い年月さまよったことは、すでに書きました。

さまようことも、迷うことも、いい悪いでは語れないことなんですが、

このブログは、そのときの苦しみを知っている身として、

わずかでも参考になれば・・・というおせっかいで書いています。

 

 

一瞥体験をこれからする人には、

自分が覚醒したときのイメージがあると思います。

「光に包まれて、もうキラッキラ?」

「この世とはなんか別世界にいるみたい?」

「まるで神に遭遇したような崇高な感覚?」

 

間違いなく、どれもすばらしいものでしょうね。

そして、あなたはイメージした通りの体験をきっとしますよ。 

なぜなら、

一瞥体験の副産物として、

自分がイメージする世界にちょっと浸るからです。

 

「ん? 副産物だって…?」

 

はい、華やかなイメージに水を差すようでなんなんですが、

覚醒の体験自体は、じつはジミなんです。

 

「一瞬、自分が消える」・・・それだけ。

 

ところが、自分が消えるという体験をしたことのない私たちは、

その副産物である解放感の方にびっくり仰天!

すっかり感激してしまうんですね。

 

なぜなら、 自我が芽生えて以来、コツコツと溜め込んできた心の荷物、

憂うつ、不安、自信のなさ、怒り、自己嫌悪、不平不満など、

日ごろ降ろしたいと願っている負の感情が、

その瞬間なくなるからです。

 

自分が消えれば、心も消える。 荷物も消える。。。

解放感という、これまで味わったことのない強烈な喜びが

“至高のイメージ” として現れ、

 「負の感情の消滅こそが、覚醒体験だー」と勘違いする…

これが、あとでガッカリする理由です。

 

ジミな覚醒体験によってもたらされる真理は、

「自己の不在=生まれるものも死ぬものもいない」ということと、

「時間の不在=いまここにすべてがある」ということです。

 

それによって「私」という我意識が薄れていくのは確かですが、

生きている限り、思考や感情が消えることはありません。

だから最期まで、ひとりの人間として素敵に生きられるんですよ。 (*^^)v 

 

地球ライフゲーム攻略法

どんなゲームでもおもしろく遊べる理由は、

そこに「特別にしつらえたルール」があるからです。

もしもルールがなかったら、ゲームは成立しません。

 

ルールとは、制約、制限、制裁、ご褒美。

 

課せられた不自由(制約や制限)の中で、

知恵と力を振り絞って他を圧倒する、

打ち負かすのがゲームの醍醐味です。

 

テレビゲームやスマホゲームを楽しめるのは、

プチっとOFFにした瞬間、

息が詰まるようなルールから解放されることを知っているからなんですね。

 

もしも、

これがテレビやスマホの世界の話ではないとしたら・・・? 

そう、この地球ライフの話だったら・・・?

 

ジャーン、

私たちは、飛びぬけてルールのきびしい地球で、

「にもかかわらず愛し合って幸せに暮らす」

というゲームに挑んだ勇敢な戦士(魂)なんです。 

 

代表的なルールをあげます。

ルール1: 自分の正体を忘れて人間として暮らす。

ルール2: 自我が芽生えると、他者との分離感を抱く。

ルール3: 愛と対極の感情を知る体験を重ねる。

ルール4: 幸せを求めて、たえず「○○になろう」とする。

 

あなたが今挑んでいる地球ライフゲームは、

甘んじて不自由を受け入れ、

これらのきびしいルールを「真実」と信じ込むことからはじまります。

 

このゲームが終わるのは、

これらが真実ではないことを見破って、

自らの真実に目覚めて、真の自由を獲得したときです。

 

その後の地球ライフは、

人々と愛し合って、自由に、幸せに暮らせるようになっていますよ。

 

さて、この地球ライフゲームにのめり込んで、

もう少し苦悩したいというなら話は別ですが、

一刻も早く真実に目覚めて、自由を謳歌したいと望むなら、

ルールをただの課題と見破る要領を覚えましょう。

 

ルール1: 自分の正体を忘れて人間として暮らす。

 あなたの正体は、人間ではありません。このゲームにチャレンジした魂です。

 体は、仮の姿で、名前や肩書は、体にくっついたアクセサリーのようなもの。

 体を含め、地球上に永遠に続くものは何もありません。

 思い出して。自分はどこからなんのためにこの地球へきたのかを・・・

 *詳しくは「本来のワタシ」の項をお読みください。

 

ルール2: 自我が芽生えると、他者との分離感を抱く。

 分離感は思考の産物であって、そもそもが錯覚なんです。

 あなたは競争ではなく、共創することで輝くイノチ(魂)の持ち主。

 イノチとは、もともとひとつにつながった純粋意識です。

 分離しているのは、体だけですよ。

 

ルール3: 愛とは対極の感情を知る体験が続く。

 二極化された地球で愛を知るには、愛でないものを知る必要があります。

 決して、ネガティブな感情を自分自身と思わないでください。

 自分はもともと愛からできているということを思い出して。

 愛はがんばって身につけるものではなく、ただ愛に還ればいいんです。

 

ルール4: 幸せを求めて、たえず「○○になろう」とする。

 「美女になろう」「成功者になろう」「優秀な人間になろう」・・・と、

 たえず何かになろうとして、「いつまでも不幸せ」でいる必要はありません。

 自分は足りない、このままでは価値がないと思うのは誤解です。

 あなたの本来の姿は「幸せな魂」、その本質は「完璧な愛」です。

 幸せが幸せを求めてさまようのは、もうオワリにしましょう。

 

地球ライフゲームを、いつまで、どうやって楽しむのか。。。

いずれにしても、あなたが敗れることは不可能なんですが、

それを決めるのはあなたですよ!

 

夢のまた夢

「もうダメだ、間に合いっこない!」

「助けて~~! これ以上走れない…」

「あっ、崖だ! 落ちるぅ~~!!」

 

そこでハッと目が覚めた。

 

「なーんだ、夢だったのか…よかったぁ」

 

私は若いとき、何度こんな体験をしたことか・・・

たとえ、崖から落ちても、ナイフで刺されても、

夢の中の出来事ならば、身も心も無傷です。

 

あなたも、夢だったと気づいて安心したこと、ありませんか?

 

もしも――

 

あなたが「まさに現実」と思っているこの今が、

じつは「夢の中」だとしたら、どう思います?

夢を見ていることに自分が気づいていないだけだったら・・・?

 

 

私たち人間の状態は4つある、と言われます。

① 熟睡している。

② 眠って夢を見ている。

③ 起きて夢を見ている。

④ 夢を夢と見抜いている。(覚醒している)

 

無意識に①から③を行き来しつつ、

普通は③を「リアルに現実を生きている」と錯覚しています。

 

釈尊は、「夢から目覚めよ」と説きました。

現実は実体のない夢だから、何にも執着するな。

それらはすべて幻である…と。

 

④の状態になれば、苦しみから解放されると教えたのです。

 

 

私自身のささやかな目覚めの体験を振り返ってみると、

そこで見抜いたことといえば・・・

現実は、あるといえばある、ないといえばない。

私は、いるといえばいる、いないといえばいない。

 

とまあ、わけのわからない表現になって恐縮ですが…(-_-;)

 

以前より苦しまなくなったことは確かです。

すべてが、執着ではなく楽しみに置き換わったんですね。

そして、たとえその楽しみが消えても、

極端な話、楽しみにしていた私自体が消えても、

もともとないものだからOKなんです。

 

覚醒体験といっても、過ぎれば単なる記憶の1ページ。

ですから、その後はこれまで同様、

ほかの人と同じように日常生活を送っています。

好き嫌いも、うれしいも悲しいも、まったく変わりません。

 

ただ、そのときの感覚を覚えておこうとする自分がいるから、

何事にもとらわれなくなったんだと思います。

 

たとえ、心身が深く傷つくような目に遭っても、 

夢ならば、本来のワタシが損なわれることはありませんから。

 

夢だからこそ、どんなことにも深刻になる必要がないんです。

真剣に、心から楽しんで、腹の底から笑って、

夢のまた夢を追いかけて過ごしたい、と思っています。

 

 

今日の話を頭で理解しようとすると、???かもしれませんが、

「そっか、何事も深刻にならなくていいんだ」

「ぜんぶ、執着しないで流しちゃえばいいんだ」

そんなふうに考えてもらえたら、うれしいです。(*^^)☆