ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

自分の正体

「あなたはボクの太陽です!」という台詞を、

恋の告白をするときに男性がよく言っていたころ・・・フルっ (笑)

 

「あなたは太陽のような人。ボクをその光で温めて…」

「ボクはあなたという光がないと、生きていけない…」

たぶん、そんな熱い思いを伝えたかったんでしょうネ。

 

私たちが「心を温めてくれる光がほしい」と願い、

「光になってくれる人を見つければ幸せになれる」と信じ込むと、

「光探し」がはじまります。

 

でもね、

光と信じて、恋人にすがっても、だれかを崇拝しても、

真の 安らぎは得られないと思います。

真とは、永遠という意味。

 

これだと思った光が目の前でしぼんでいくのを見て、

「違った・・・」と、失望感を抱くのが関の山でしょう。

私がそうでした。

 

私は、光明(暗闇を照らし出す光)を求め、

自分に光明をもたらしてくれる人を探して、

探究しまくっていた時期がありました。

 

失望し、また探究し、また失望して、また探究・・・

とうとう探すことに疲れ果てて、

「やめ、やめ、もう全部やめー!」と、

降参したそのときでした。

 

「な、な、なんと、自分が光明だった…」

という気づきを得て、

自分の外に求めるものなど何もないことを知ったのです。

そして、長かった探究の旅が終わりました。

 

私たちは、ひとり残らず光明であり、光源なんですよ。

光源とは、幸せの源、愛そのもの。

 

その光源が、なんとか幸せになろう、愛になろうとしても、

最初からもうソレだから、なりようがないんですね。

 

 

 

お釈迦様は、『自灯明』という言葉を残されました。

 自らを光とし、自らを拠り所とせよ。

 ほかのものに頼ってはならない、と。

 

 自分が暗闇を照らし出す光であることに目覚めれば、

 暗闇が幻想とわかる。

 つまり、真理がわかる、と。

 

そこに至る道は、

自分の外にあるのではありません。

自分の内へ内へと深く入っていく道。

深く入っていくと、

最後に宇宙に突き抜ける、という摩訶不思議な道なんです。

 

 

 

もしもですよ。

「あなたはボクの太陽です!」と言われたら、

舞い上がって、「あなたも私の太陽よ!」なんて応えず、

「あなたも、私も、太陽。ホントは光なのよ。知らなかった?」

ってね。

あー、言ってみたい! (*´▽`*)

 

涙腺、ゆるんでます

花粉症ではありませんが、

このごろなぜか、めっちゃ涙腺がゆるいんです。

何かにつけて、すぐウルッときます。

 

朝、ベッドの中で、

「穏やかな気持ちで起きられた・・・」と思ったらうれしくて、ジワッ…

空を仰いで、

「空気がキラキラ光って、きれい・・・」と気づいて、胸がキュン…

体操しながら、

「健気な体、がんばってくれてありがとう・・・」と思ったら、ウルッ…

夜、ドラマを観ていて、

「いいこと言うなぁ・・・」と感動して、ポロッ…

 

まあね、

「それは加齢現象です!」と冷たく言い放つ人もいると思いますが、

本人は「よきこと」と満足しているんです。(笑)

 

以前から、

眠っているあいだも心臓を動かしてくれる

神とか、大宇宙と呼ばれる存在によって、

私は生かされている、と思っていましたが・・・

 

人間の本質は「純粋意識/生命エネルギー」で、

私は、神や大宇宙の小さな表れとして、

ただ今、このパーソナリティとボディを体験中!

 

という気づきを得てからは、

まわりの景色や物事を「同じ表れ」として見たり、

体の衰えを「初体験」として微笑ましく味わったり、と

心に余裕が生れました。

 

そうやって深刻に悩むことがなくなった反面、

ちょっとしたことにも心が震えて、

「なんとまあ、ありがたい!」と感じるんですね。

 

その感覚を、別の言葉で表現すると、

 いまここに「在るものたち」と同じように、

 私も、在る。

 それが喜び。

ということになるでしょうか。。。

 

以前はそんなこと、考えたこともなかったから、

喜びでもなんでもなかったけれど、

今は「在る」ということに思いをはせると、

胸が熱くなります。

 

 

きのうは、ネットサーフィンをしていて、

西行伊勢神宮で詠んだ、こんな和歌を見つけましたよ。

 

――なにごとの おはしますかは 知らねども

  かたじけなさに 涙こぼるる――

 

(どなた様がおいでなのかわかりませんが、

 おそれ多くてありがたくて、ただただ涙があふれます)

 

マウスを握りしめたまま、またしても、、、ウルッ

 

人生ゲームって?

あのとき、ああしていればなぁ・・・

あそこで違う道を選んでいたら、違う人生になったかも・・・

と、思うことがありますか?

 

何かがひとつ違えば、確かに違う人生になったでしょう。

でも悔やむことは、意味のない空想ごっこ。

私たちは全員、今この瞬間も、

「これしかない!」という絶対の人生を生きているからです。

 

常識的な頭で判断すれば、

悲惨なことは起きない方がいいに決まっているけど、

深い部分、魂にとってはまるで違います。

 

失恋も、リストラも、裏切りも、いじめも、

愛する人との死別や、天災さえも・・・

淡々と起きては消えていく出来事のひとつ。

うれしいことや、楽しいことと同等なんです。

 

 魂には、

その出来事を通して、かみしめたい感情があり、

その体験を通して、意識を拡げて、

どうしても「やり遂げたい」ことがあるんですね。

  

それは、常識がくつがえるような体験を経て、

本当のやすらぎと、愛に目覚めること。

そして、“本来のワタシ” に溶け込んで生きること。

 

そのために魂は、物質次元に降り立って体に入ったんです。

すべては計画通り。

だから、これまで自分が選んだ道は全部マル!

これから選ぶ道も全部マル!

 

ただやっかいなのは、

“本来のワタシ”は、こちらから会いに行けなくて、

むこうから来てくれるのを待つしかないということ。

 

でも、心配はいりません。

じつは、

私たちの深い部分は、すでに“本来のワタシ”に溶けているから。

みんな、“本来のワタシ”の、かわいらしい表れなんですよ。

 

植物も、動物も、この世にあるものはすべてそう。

そのことに唯一気づけないのが、自我…

 

私たちは自我に翻弄される人間となって、

「真理」を思い出す人生ゲームにチャレンジ中。

それをやり遂げることで、愛を増幅させようとしているんです。

 

そうと知ったら、安心して続きを楽しみませんか。

頭を置いて、起きることを淡々と受けとめ、

人生ゲームのクライマックスに向けて、まい進しましょう!

 

この呪文、効くぅ

だれかにイライラしたとき、

最高に効く呪文を公開しちゃいます。

私、お気に入りのつぶやきです。

 

「この役、おりまーす!」

 

心の中でそう唱えるだけで、

イライラが嘘のように消えるか、

気にならないくらい小さくなります。

 

まぁ、だまされたと思ってお試しあれ。

「役」という言葉が、鍵ですぞ。

 

 

私たちはみんな、四六時中、何がしかの役を担っています。

正確には、役にくっついた自分のイメージ、観念です。

 

たとえば、親といるときは、

 親思いの娘とか、頼もしい長女とか、後継者の顔とか・・・

勤務先では、

 従順な部下とか、期待の星とか、部下思いの上司とか・・・

既婚者なら、

 やさしい夫とか、かいがいしい妻とか、理解ある親とか・・・

 

みんなが期待される役をこなしながら、人間関係を営んでいるんですね。

「それ普通」と思うかもしれませんが、

自分が無意識にその役を演じていることに、気づいていますか?

 

思うようにならなくてイライラするのは、

好きで、ではなく、自動的に、その役をやっているときなんです。

 

私の場合は、

頼もしい長女、やさしい姉、かいがいしい妻など。

 子どものころから「そうあるべき」と思っていたり、

 そうでないと自分が認めてもらえないような気がしたり、

 私はそういう立派な人間なのだと自分が思いたかったり…してネ。

 

で、ホントはその役をやりたくないときでも、

自動的に演じて心が疲れてしまう、ということがしょっちゅうありました。

 

その反動で坐禅にのめり込み、

「だれでもない自分」でいる時間を求めました。

 

だれでもない自分とは、素の自分。

ありのままにくつろいだ、心が自由な自分です。

 

今は簡単な方法を見つけたから、

「自分からその役を降りるだけで、だれでもない自分に戻れる」

とわかって、すごく助かっています。

 

先日も、父にイラっとしてひと言いいたくなったとき、

「この役、おりまーす!」

と心の中で唱えたら、

とたんに細々したことが気にならなくなって、

笑顔で「好きにすれば」と言っていました。(^_^.)

 

相手を変えようとせず、

状況を変えようとせず、

無意識に演じていたいつもの役を、ただおりればいい。 

 

もし、仕事先で上司に叱られてダメージを受けたら、

「この役、おりまーす!」と言って、

叱られてしょんぼりする部下役を、返上しましょう。

すると、

心が軽くなって、出来事の方が素通りしていきますよ。

 

役は、相手の期待することが変われば変わるし、

もともと、「役=自分」ではありません。

 

それがわかれば、

自分は、だれからも傷つけられないし、

何も失わない存在だということを、実感するでしょう。

 

「この役、おりまーす!」は、

縛られた心を解放してくれる、自分にやさしい呪文なんです。

 

おおいに遊ぼっと

うんと幼いころ、遊ぶことに夢中になって

お漏らしをしてしまい、よく親に叱られたものです。

「遊びをやめて、ちゃんと言いなさい!」って。(-_-;)

 

小学校に通うようになると、

「遊んでばかりいないで、もっと勉強しなさい!」

 

中学生になると、

「遊ぶ時間があったら、少しはお手伝いしなさい!」

 

高校生になると、

「遊んでばかりいたら、ろくな人間にならないから!」

 

とまあ、こんな調子で、

「遊ぶ」ことへのマイナスイメージてんこ盛りで、

私は大人になりました。

 

すると、どうなるかというと、

基本、まじめで勤勉。

遊ぶときは、「この程度なら許される?」とたえず罪悪感と背中合わせ。

上手に遊ぶ人に対しては、「ふまじめ!」と批判的。

 

でもね、

本音は「思いきり遊びたい」わけですよ。

時が経つのも忘れるほど、遊びに没頭してみたい!って…

 

ところが困ったことに、

いろんな娯楽に手を出しても、すぐ飽きちゃうんです。

「しょせん遊び」という頭がどこかにあったんでしょうねぇ。

 

 

そんな私が、人生の半ばを過ぎて、

この言葉に心を奪われ・・・

なぜか魂の叫びのように感じて、気持ちが変わったんです。

 

『遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん』

                 ―梁塵秘抄より―

 

「遊び」「戯れ」って何? と思いました。

調べてみると、

「遊」という字の語源は、「神様の霊がいく」。

それが「人が興の趣くままに行動して楽しむ」という意味に変わっていったこと。

一方、「戯」の語源は「おもちゃの矛」で、

「戯れる」には、「おもしろく遊ぶ」という意味があることがわかりました。

 

魂は、さまざまななヒントを与えて私に気づかせようとしたんでしょう。

「自分が、神の分け御霊であることを自覚して、

おもちゃの如きこの世で、楽しく、おもしろく遊びなさい」と。

 

そういえば、観音経の中にも、こんな言葉を見つけました。

『娑婆世界に遊ぶ』

観音様は、娑婆世界で遊ぶがごとく、楽しんで人々を救う、

という意味です。

やはり、「遊」は「神様の霊がいく」なんですね。

 

以来、私はお漏らし時代に戻ったかのように、

「遊び」に夢中。 あは!

生きていることが、ただ在ることが、遊びです。

 

さあ、あなたも、

生きているあいだにつながった人たち、仕事、趣味など、

この世にあるモノとおおいに戯れて、おもしろく遊びませんか?

 

つかの間の人生

私が暮らす黒姫山のふもとでは、今日も小雪が舞っています。

ところで、「雪の結晶」って見たことあります?

それはそれは神秘的で、はかなく美しいものです。

 

基本は六角形なんですが、二つとして同じ形はないんですって。

 

雪の結晶 なぜ 六角形 温度(出典:ウィキペディア

              

それを知ったとき、

「なんだか人間と似てるな…」と思いました。

しかも、人ひとりの一生は、

大宇宙から見たら、

ひとひらの雪が舞い落ちるくらいのわずかな時間。

 

そんなことを思いながら、

舞い落ちる雪を眺めるのが好きなんです。

「あの雪、私」とか言って・・・

 

雪が降っている風景を眺めるとき、

普通は、雪そのものに焦点を当てないんでしょうが、

あえて、上空のひとひらの雪をマークして、

それがどこかにたどり着くまで、目で追いかけるんです。

 

それを何度もくり返していると、

頭が空白になってきて…

まるで、自分が何度も何度も生まれ変わって、

雪になって舞っているかのような気分になるから不思議…

(^▽^;)

地に降った雪も、再び蒸発してまた降ってきますもんネ。

 

 

ひとつひとつ形の違う、無数の雪の結晶は、

ひとりひとり個性の違う、地球人になった私たちみたい。

 

ひとひらの雪が舞い落ちるほんのわずかな時間を

私たちの人生に重ねてみると、

 

一直線に落ちていく雪もあれば、

風に乗って飛んでいったり、塀にぶつかったりする雪もある。

 

どこで消えるかは、関係ない。

違う長さの、違う道を、思いきり楽しむために舞っている…

 

そんなことをしみじみ感じて、

「なんたって短い人生だ、好きなように生きよう!」

と改めて思うわけです。

 

 

私同様、好きなように生きようとしているあなたに、

こんな言葉がありますよ。

「人生は、他人がどう思うかではない。自分がどう生きたかだ」

 

つかの間の人生、

他人がどう思うかを気にしているヒマはありません。

 

唯一の個性である自分を愛して、

まっ最中の人生をおもしろがって、悔いなく生きましょう!

 

修行という道

ちょっとお休みして、

福井県にある、曹洞宗大本山永平寺」に行ってきました。

 

永平寺は、1244年に道元禅師によって開かれた坐禅道場です。

開祖、道元禅師は、中国で学んだ禅の教えを広く日本に伝えた人。

今は180名ほどの修行僧が、古来の教えにしたがって生活しています。

 

もともと雪深い地域に、今年降った雪の量は尋常ではなかったようで、

ようやく落ち着いた2月下旬から新たな修行僧を30名ほど受け入れたばかり。

そんな事情で、「現在、体験坐禅は行っていません」と言われました。

 

うーん、残念!

で、雲水(修行僧の呼称)の生活する場をゆっくり見てきました。

 

かつて、広島の坐禅道場に通い続けた身としては、

僧堂(坐禅をする場所)をはじめ、建物や廊下に漂う凛とした静けさが、

なつかしくもあり、いとしくもあり、

心身が引き締まる思いでした。

 

実際に寒くて、心身が引き締まっていたのかもしれませんが(笑)、

雪が盛り上がった庭を囲むように回廊があって、

どこも外と同じ温度、暖房はまったくありません。

 

でも、雲水たちは、素足に草履。

衣もとても薄い。

そこから、すでに修行がはじまっているんですね。

 

そうやって厳しい修行に励む、若い雲水たち。。。

「真理を求める気持ち」がよーくわかるだけに、

その姿を見て、思わず涙があふれそうになりました。

 

道元禅師は「修行そのものが悟りである」と説きました。

静の修行が、坐禅

動の修行が、作務。

洗面、食事、お手洗い、入浴…起きているあいだは全部が修行。

雑念を入れず、何事もできるようになることが悟りなのだと。

 

以前の私は、雑念を入れずに座ることに必死になって、

それがなかなかできない自分を激しく責めたものです。

当時を振り返って思うことが、ふたつあります。

 

ひとつは、真理を求めない(執着しない)心の大切さ。

なぜなら、真理はすでに自分の一部として、

いまここにあるからです。

ここにあるということに、ただ気づくだけでいい。

求めれば求めるほど、自分を責め、真理から遠ざかってしまうから。

 

もうひとつは、自分には足りないものがあるという考えの誤り。

ありのままの自分を完全に受け入れたとき、

足りないものなど初めからなかったということ、

自分は完璧な存在の一部だったということがわかって、

心から安堵するでしょう。

 

そのとき、外に悟りを求める行為が終わるんです。

 

今の私に、「修行こそが悟りの道」という考えはありません。

もし、修行が我慢を必要とするならば、

我慢から悟りに至るとはまったく考えられないからです。

 

ただし、その人にとって、

修行が苦行ではなく、喜びと感謝の行であるならば、

いっさいの欲望から離れることができたら、

そのとき、自由の境地を得ることができると思います。

 

中国から帰国した道元禅師は、何を習得したのかと問われ、

「眼横鼻直」(がんのうびちょく)と答えました。

目は横、鼻は縦でしかないのだから、それ以外のことにこだわる必要がない。

すべて丸出しの真理に、あれこれ思いをめぐらさず、

ありのままを、ありのままに受けとめればいい、と言ったんですね。

 

 

あの日、私は永平寺の雲水に、

心の中でそっと手を合わせました。

 

この道を選んだ尊い志が、いつか必ず叶いますように・・・

あなたは、もうひとりの私です。

                   合掌