ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

「いまここ」は時間と場所にあらず

大いなる気づきの中で、

「いまここ」に、すべてがあることを知りました。

 

「いまここ」は、時間と場所を指しているんじゃないんですね。

「いま」を、あえて言葉にすると、「時を超えた今」

「ここ」を、あえて言葉にすると、「全体という源」

 それで、

「永遠のいまここ」と表現してみたんですが、

うーん・・・やっぱりわかりにくい。

 

「いまここ」は、もともと言い表せるようなものではないし、

 「ひとつの生命エネルギー」と言われてもピンとこない。

「創造神」と言われても、えー?となる。

(かつての私がそうでした)

 

もっと身近で、わかりやすい表現はないかと探して、

 “本来のワタシ” という表現に落ち着きました。

 

「いまここ」は、時間と場所ではないと書きましたが、

でも、“本来のワタシ”に出会うときは、

意識は、必ず「今」にあります。

過去や未来に意識飛んでない、という意味です。

 

だから、禅の修行では「今・今・今」、

自分が「今」していることに没頭して

自我意識を落とし、

身心脱落を目指します。

 

私は10年ほど、がむしゃらに座禅を組んだことがあるんですね。

老師から「生きたまま、死んで来い」と言われて座るものの、

当時、私は「悟りたい!」という自我と一体化していたために、

燃える自我を超えることは、とうとうできませんでした。

 

それから、苦節ウン年。。。

 

「絶対に悟りたい」を含む、すべての欲望が削ぎ落とされたとき、

騒々しかった心に、うそのような静寂がおとずれました。

 

波立っていた水面が、

いつのまにか鏡のように平になって、

そこに……ぽっかり、月が映った。

 

月は、心がどんなに波立っているときも、

それこそ宇宙の始まりから、

ずーっと変わらず、水面に映っていたのです。

 

月は例えに過ぎません。

これが、いまここ、 “本来のワタシ”に出会ったときのようすです。

 

すると、不思議なことに、

老師から言われた「生きたまま、死んで来い」や、

「仏が出たら、仏を殺せ」といった言葉の真意、

さらには、難解だった禅語の解釈が、

ストンと腑に落ちました。

 

禅は、奥深い。

禅の心で生きていきたいと思います。

 

 

あなたは、我を忘れて何かに夢中になり、

時が経つのも忘れていたこと、あるでしょう?

そのとき、

余計な考えや、嫌な感情にわずらわされる自分は

いなかったはず。

 

ふと我に返って、

思わず時計を見て、

「もうこんな時間? あー、おもしろかったぁ」

と感じたと思います。

 

そうやって何度も、

あなたは「いまここ」を味わった経験があるんですよ。

 

本当は、これまで一瞬たりとも、

「いまここ」から切り離されていたことはないのですが…

 

あとは、

“私” と “本来のワタシ”は、不可分。

そのことに、ある日突然、「劇的に気づく」だけ。

 

気づいたあとは、

「もう逝く時間? あー、おもしろかったぁ」

というまで、人生に夢中になればいいんです。