ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

お釈迦さまの掌の上

もはや、記憶もかすむくらい昔の話で恐縮ですが…

名古屋出身の私が20歳のときに就職した先は、中部日本放送アナウンス部

そこで「ゴーゴー・ドラゴンズ」というテレビ番組を4年間担当して、

足しげく球場に通い、宮崎キャンプへも取材にいきました。

 

選手たちと親しくなっていく中で、

「これが男気というものか」と乙女心をくすぐられたのが、星野仙一さん。

とっても思いやりのある、魅力的な人でした。

私は、その後もずっと知り合い気分でテレビで顔を見ていましたから、

突然の訃報、70歳。早すぎる死に、びっくり!!

 

でもね、

もしショックに、「悲しみ」や「落胆」が含がまれるとしたら、

ショックはありませんでした。

「おつかれさま」「ありがとう」「本来の姿にかえったんですね」・・・

空を仰いで、そんな言葉を言っている自分がいました。

 

じつは、去年の6月に母を見送ったときも、まったく同じ気持ちでした。

涙の代わりに、愛の微笑みがこぼれました。

それから、より一層、母の存在を身近に感じるようになったんです。

 

死生観は、それぞれ人によって大きく異なるものなので、

正しいかどうかという観点で、これを読まないでくださいね。

ただ、こんな受け止め方もありますよ・・・ということ。

 

かつての私は、死をこわがって忌み嫌っていました。

なぜかというと、まだ何も知らなかったから。

それから二度、覚醒体験をして、

“本来のワタシ”が存在することを知ってから、死に対する認識が180度変わったんです。

 

本来のワタシに、「死」はありません。

 

本来のワタシは、肉体でも、感情でも、思考でもない。

どこどこのだれそれといった名前でも、肩書きでもない。

それらはみんな、この世をエンジョイするための付属品。

あってないもの。

 

だから、

「何かをやり残している」と未練を残すことは、ないんです。

「心が傷ついたままだ」と苦しみ続けることも、ないんです。

そういうことは、

生きている人間が自分に当てはめて、勝手に想像するだけなんですね。

 

人間の体に入ったワタシを「魂」と呼ぶとすれば、

魂が人間の体を去ることは、終わりではなく、

光にかえって次のステージに向かう、はじまり。

人間の死は、魂の門出なんですよ。

 

「それじゃ、ゆりりんは夫を亡くしても悲しまないの? 」と聞かれれば、

「ううん、悲しくて、悲しくて、泣きじゃくる!」と答えるでしょう。

でも、その感情を昇華させたら、やはり、愛の微笑みを浮かべると思います。

 

私はというと、本当にいつ死んでもいいんです。おまかせ。

でも、そのときまでは、思いっきり自由に、

何事に見舞われても、「おーそうか、そうか」と笑い飛ばしながら生きたい!

“本来のワタシ”の掌の上に乗っかって。。。

 

それは、お釈迦さまの掌の上と同じだって、知ってます?