でたー、帯状疱疹!
新居が見つかって喜びの日々・・・
を送っているはずの、この2週間。
な、な、なんと、
私、帯状疱疹(たいじょうほうしん)になってのびてました。
トホホです。
帯状疱疹と聞いて、経験者は「お前もか!」
親族がかかった人は「痛いらしいネ」
若い未経験者は「なにそれ?」
ってな反応でしょうが、一応説明すると、、、
水ぼうそうにかかったこと、ありますか?
そのウイルスが何十年も潜伏していて、
抵抗力の衰えたころ、
たいていは高齢になって疲れたときに暴れ出すんです。
日本人の60歳から80歳までの三人に一人が、
心身のストレスを引き金に発症する、というもの。
左右どちらかの半身に、神経に沿って帯状に発疹が出て、
ピリピリと痛い。
ときどき稲妻が走るように痛い。
治すには、薬を飲み、安静にして待つしかない。
私の場合、お尻から太ももにかけて出たので、
ふつうに座れない・・・
ますますトホホです。
横になって、天井見つめて、ハタと思い出しました。
「そういえば、人生三大ストレスってのがあったな」
「たしか、身内の死、離婚、引越だった…」と。
えっ、引越も!? とおどろきましたか?
不本意な引越なら、なおさらですが、
引越はめでたいことのようで、
決めなければならないことと、やらなければならないことに追いまくられて、
現実的には過剰なストレスを抱えるわけです。
それまでの生活が一変すること自体、
人間にとっては、多大な刺激=ストレスなんですね。
ということで、
あっさり戦線離脱した私は、
掃除はプロに、
白アリだ、保険だ、住所変更だ~は、全部主人に任せて、
ひたすら、
ゴロゴロゴロ・・・でも、いたい。
でも、あきれるほどよく眠れる。
考えてみれば、
17日の引っ越し予定の日まで休めるという、
あたかも図ったような問題なしのタイミングでダウン。
痛みが一段落して、眠り飽きたころ、
この体験をどう解釈したものか…と思いましたよ。
ある友は「体の浄化よ」と言いました。
「体は嘘をつけない。体に嘘はつけない。体は神の領域!」と。
別の友は言いました。
「貴重な瞑想時間よ」「自分の声を聴く絶好のチャンス!」と。
ハイヤーセルフは…
「何も考えなくていい。眠っているあいだに情報をダウンロードする」と。
夢うつつの中で、
亡くなった母が寄り添ってくれて、思いきり甘えました。
ワンワン泣きました。
そんなこんなで、私、いい時間を過ごしています!! (^▽^;)
おうち、めっけ!!
今週は、私にとって大きな出来事がありました。
沖縄に移住したのが、去年の夏。
1年余りで、念願の「おうち」が見つかったんです! (^^♪
直観で即決、仮契約を済ませたところですが、
それが、なんとも不思議というか…
そうなるようになっていた…としか思えないめぐり合わせ。
じつは数日前に、
夢うつつの中で、おうちのヴィジョンを見たんですね。
濃い茶色のフローリングに大きな窓と外がチラリ。
漠然と、「一軒家だ」と思ったのですが・・・
主人に話すと、「それだけ? それどこ?」って。
わかるわけない。(笑)
その2日後、主人が「こんな物件がネットにあった」と。
「近いよ。今から見に行こう」と車を走らせることたった2分。
外観は古いけれど、たたずまいとまわりの環境が気に入って、
「これなら海が見えるはず」と
掲示されていた不動産会社に電話して、中を見せてもらうことに。
で、リビングに足を踏み入れるなり、
「ここだぁ…」
夢で見た風景だったんです。
とんとんとんと二階にあがって、
目が点になりました。
正面に、久高島がドーンと見えるではありませんか!
そこでハタと思い出しました。
「私、神の島と言われる久高島が見えるところで暮らしたい」
そう願って沖縄に来たんだったって。
以来、そんな物件を求めてあちらこちらに声をかけていました。
できれば、正面に海が眺められるところで。
できれば、執筆できるような静かな地域で。
できれば、海まで歩いて出られる環境で。
できれば、西日を避けたい。
(沖縄では、一番人気が東向き。南向きは暑いんです)
それでもって、予算は長野の家を売った値段で。
そりゃむずかしいねぇ。
と言われ続け、正直、あきらめかけていたんですね。
それらのむずかしい条件をすべて満たし、
しかも、しかもですよ。
増税前の滑り込みセーフで買えるなんて…(*'▽')
とどめは不動産屋のお兄さん。
「宇佐美百合子さん?本当ですか?
わぁ、ぼく本持ってます。サインください」というオマケつき。
ご縁に深く感謝しつつアパートの部屋に戻ると、
ふたたび目が点!
なんと、見つけたおうちがしっかり見えてるんですよ。
沖縄に来てからずっと、
将来の家を見守っていたのか、見守られていたのか・・・
じつは、ヴジョンを見た翌日に物件がアップされていて、
その翌日にそれを主人が見つけて、
そのまた翌日に購入!
この流れ・・・もう、「はあ~」という感じです。
‶引き寄せ‶ とは、
『純粋に願い、あとは執着心を捨てて、宇宙にお任せする!』
これが定理だと、改めて実感しました。
引っ越しは来月17日と決めて、
それまでは、自分たちで掃除してリフォームすることに。
それもこれも大変と思わず、
ぜーんぶ、楽しんでやろうと張り切ってますが、
どうなりますことやら・・・(笑)
人生は、結果ではなく、経過を楽しむ旅ですもんね!
まずは一安心。
ありがとう!宇宙よ~!!
ひとかどの人物
この歳になったからでしょうか・・・しみじみ思います。
どうしてあんなにあがいて、
「ひとかどの人物」になろうとしたんだろう…って。
今思えば、
私は「成果」をあげるために生きてるわけじゃないのに、
何らかの成果をあげなくては「存在価値」がないという、
間違った思い込みをしていたんですね。
それが、全体からの分離感を生み、
ライバル意識やジェラシーを増幅させ、
「私はまだまだだ」
「~ねばならない」という気持ちを駆り立てました。
それって、エンドレスだから、
不安と恐怖と焦りが消えることはありませんでした。
あー思い出すだけで…うっ…胸が苦しくなる…(笑)
この世界は、
それぞれの人が、対等に、
自分の体験したい世界を創って、体験しているだけ。
それなのに私ったら、
人は私をほめてくれるためにいるわけじゃないのに、
私のことをもっと理解してほしいとか、
私のいうことを聞いてほしいと悩みまくってたなって思います。
そして、
すべての人は、平等に、
自分が体験したいことを終えた段階で、
肉体を離れます。
自分は、この肉体でも、この感情でもなく、
それらをすっぽり包み込む「魂」だと実感したとき、
魂の計画通りに人生は展開し、終焉することを知りました。
この世は、
それぞれの魂が、宇宙からきて宇宙に還っていく間に、
好きなテーマで、人生というものを存分に体験するテーマパークなんです!
魂は、人間の頭では理解に苦しむような計画を立ててきます。
たとえば、
自由にあこがれ、自由を求める気持ちを理解したいから、
「どうしようもない不自由を強いられる人生」を設定しよう。とか
えーっ!って思いますよね。
あるいは、無条件の愛について学びたいから、
「条件付きでしか愛してくれない両親」を選ぼう。とか
そうやって、
だましたり、だまされたり、
愛したり、憎んだり、、、
二極の世界で、
「不自由」「不足感」「不条理」などをたっぷり味わって、
真の自由や喜び、愛や幸せに目覚めていく仕組みです。
「もともと、いいも悪いもなかったんだ!」と思ったら、
私は俄然おもしろくなりました。
で、魂に尋ねたんです。
何度も何度も地球に転生して、
その転生に「あがり」があるなら、
最後の人生では何をしたいの? って。
そしたら、
「全体意識に目覚めて、この世を生きる」
と、言ったような気がして。
うーん、わかるような、わからないような・・・
まあ、そんな反応をすることじたい、
「道半ば」ということなのでしょうネ。(^▽^;)
今世、生きているうちに間に合わせたい!!
理想はどこにある?
ベランダからぼんやり海を見ていたら、こんな言葉が浮かびました。
『理想は、形に求めるものでも、人に求めるものでもない。
理想は、自分の心の奥に求めるもの。
自分の心のありように求めるもの。』
私たちはつい、理想を「形」や「人」に求めてしまいますよね。
例をあげると、
理想の仕事に就いて、肩書きゲット。
贅沢な暮らしができるようになって、高収入ゲット。
夫と子供に愛されて、すばらしい家庭ゲット、、、というように。
でも、本当は気づいているのではないでしょうか。
この理想は、
自分の外側にある「形」、「人」を当てにした幸せだと。
「形」は、変わりつづけるのが定め、
「人」は、思うようにはならないのが定めです。
だから、
この理想は、まず叶わないし、
叶ったとしても、続かない。
しかも、
たえず、不安と背中合わせ…になるんですね。
もしも本気で、
変わらない豊かさと幸福感を求めるなら、
自分自身の心の奥に、それを求めましょう。
自分の心のありようを、自分の理想的にするのです。
実際それしか、
心豊かに、愛に満ちて、ずっと平安に生きていく道はないと思います。
豊かさとは、
「なんにもなくても幸せ~」という心のありようのこと。
「もっとほしい」とか「まだ足りない」から解放されている状態なんです。
それはどんなにラクか・・・ちょっと想像してみて。
私は「人間の理想は、このラクさを手に入れることだ!」と感動しました。(笑)
だれもが心の奥に、無限の豊かさと愛を秘め持っています。
ただ、現実に流されて(追われて)生きていると、
心の奥にそれを見つけられないかもしれません。
どういう人が見つけられるのかというと、、、
ひとつは、
心が追い詰められて、
もうダメだ、これ以上がんばれないっと降参して、
執着していた事項を完全にギブアップした人。
もうひとつは、
目の前にあるものを「有難い」と感じ、「ありがとう」を唱え続け、
毎日を泣きたいほど感謝の心で生きている人。
いずれにしても、心が飛躍するのは、心の針が振り切ったとき。
覚醒が起きるのは、
苦しくて現状に降参して…
あるいは、うれしくて感謝が高じて…
神の前にひれ伏したときなのです。
真摯に求める人には、
「豊かさは心の中にあったんだ…」と実感するときが、
そして、
「なんだ、私は最初から幸せだったんだ…」と気づくときが、
必ずやってくるでしょう。
ほんと、楽しみですネ! (*^^)v
記憶を ぶっ飛ばせ~!
『これまでいいと思い込んでいたことを、チャラにする』
そして、自由になろう!
前回に続くテーマです。
大前提として・・・
私たちひとりひとりの人生物語、
(私はこんなことをしてきたこんな人間…
あのときああ感じて、こう考えるようになった…といった自分史)
それは、各自の記憶の中にあるものです。
起きた出来事は事実でも、
それに対する感情や解釈は、
経験や年齢によって変わり得るものですよね。
たとえば、
誰かに叱られて「悲しかった」「あの人キライ」が、
その人の真意を知って、
「ありがたい」「あの人尊敬する」に変わったこと、ありませんか?
一つの見解としては、
失敗も挫折も失恋も、
「しない方がよかった」から「いい経験だった」と思えるようになることが、
人として成長することなのかもしれません。
つまり、
過去も未来も、記憶はそれを思っている今にすべてあるということ。
今の自分しだいで、
それらは何色にでも塗り替えられる、ということです。
以上が長い前置き。(^▽^;)
さて、ここからが本題です。
私ね、
もし今、自分の頭の中にある記憶を置くことができたら、
これまでの人生物語の記憶が一時的に消えたとしたら、
「何する…?」と想像してみたんです。
記憶喪失とは違いますよ。
記憶を取り出そうと思えば、いつでも取り出せるんだから。
ただ、記憶にいっさい心のありようの邪魔をさせない。
すると、
そこに現れたのは、なんの色もついてない素の自分。
素の自分の中は、シーンと静かで、
ああれしなくちゃ…とか、なんにも浮かばない。
真っ白なキャンパスが、心の中央にあるって感じ。。。
あっ、向こうで誰かが笑ってる。
「楽しそう」
あっちの人は怒ってる。
「悲しそう」
それだけ。
「この人はいい人、あの人は悪い人」という感情は、わかない。
自分にたいしても、同じだった。
飲み物をこぼしちゃった。
「あはは」
ドアに指をはさんだ。
「いたーい!」
それだけ。
「私はドジ。おっちょこちょいでダメな奴」ともなんとも思わない。
わかります?
心が白紙で、解放感と、安らぎがある世界・・・
一瞬でもいい、そんな状態を自分に作ってみませんか?
心がいろんな色でぐちゃぐちゃになったとき、
私は瞑想や統合をして、そこに戻ります。
そこは、、、ニュートラルというか、
決めつけや思い込みに支配されない、
これまでいいと思っていたことをチャラにできる磁場なんです。
そこにチューニングしたとたん、心は自由を得ます。
それぞれが自分に合った方法でチューニングすればいい。
そこは誰でも、合わせようという意志があれば行けるところ。
私たちは、本当は、もともとそこから出発して、
ややこしい人生物語を紡いで戯れているだけなんだから。
普段は、感情を味わってふつうに生活すればいい。
でも、記憶に縛られずにいることはできる、って伝えたかったのですが、、、
まとまらないまま、、、ま、いっか。
お知らせに突入!(笑)
今日は、FMレキオ(80.6)で、16:00から1時間、
『田中小梅の開運話』という番組で、
お招きいただいた小梅ちゃんと、楽しくおしゃべりしてきまーす。
ツイキャスで録画をご覧になれると思いますが、
毎度、急ですみません!m(_ _)m
頭の中を ぶっ壊せ~~!
最近、ある想いが、
想いと言っても、アイデアとか思考じゃなくて…
「そうなんだ・・・」みたいな感覚。
想いは瞬間に降ってくるので、
「ふん?」と立ち止まって、意味を汲み取る感じ。
それがたびたびやってくる。
手を変え品を変え…ってな具合で、
いろんな角度から何かを見せられているような気がするんです。
その想いとは、
「これまでいいと思い込んでいたことを、逆にしたら?」
あえて言葉にすると、そういうことに。
常識や世論、それに染まった自分の観念のことを指してる。
たとえば、
「我慢して働かないと、生きていけなくなるぞ」
「人に合わせることは、円満な人間関係には必須」
「ほかの人に後ろ指さされないようにするべき」
「何かを達成して初めて世間から認められる」
:
とまあ、挙げればキリがありませんが、
ようは、
一度頭の中をぶっ壊して、逆から見てみよ!ということ。
順に解説してみます…
「我慢して働かないと、生きていけなくなるぞ」は、
↓
「我慢という価値観はいらない。
自分がしたことを喜々としてする意識が、幸福の源」
「人に合わせることは、円満な人間関係には必須」は、
↓
「人に合わせるのではない。
人は違っていて当たり前なのだから、違いを認め合うことが大事」
「ほかの人に後ろ指さされないようにするべき」は、
↓
「調和は、人の目を恐れて作るものではない。
互いを応援し合う、称え合う心が、調和を生み出す」
「何かを達成して初めて世間から認められる」は、
↓
「人はみな、すでに達成された存在。
ただ在ることを祝福し合う意識が、真の平和をもたらす」
こういうことって、普段からわりと考えていたつもりだったんだけど、
考えることと、それを生きていること(それを実践すること)は違う、
ということなんでしょうね。
きっと、
私の中にまだ小さな恐れがあるんだと思いました。
先に挙げた一般常識的な考えは、
令和の時代にそぐわなくなっていく。
だから、
頭と心、古い信念と新たな意識を、
自分の中で統合する必要があるのです。
恐れや焦りや不安のエネルギーを、光に還元する。
強迫観念を捨てて、捨てて、捨てきったとき、
もう、他人のことも、この先何がどうなるかも、心配しなくなります。
これからの私たちは、
5次元の意識で、3次元の世界を楽しむことが大切!
3次元と5次元は、愛の量が全然違う。
深刻にならず、真剣に楽しむ!!
深刻と真剣は、似ているようでまるで違いますもんネ。
そっか、よっしゃ~~~~!
まだまだ、もっともっと自由になれるんだ~~~と、
実感しました。
ではでは、この続きは次回に! (*'▽')
体は心の写し、宇宙の写し。
体は、物心ついたときから、
当たり前のように身近にあるものですよね。
私は、身近すぎて「自分=体」と思っていました。
思春期になると、「自分=体」を、
ほかの人と比べては、「鼻が低い…足が太い…」と落ち込んで、
どんどん自分の価値を下げていきました。
あはは、今思えばカワイイ~! でも笑えない。。。
次に思ったのは、「自分=体+心」です。
でも、体は気に入らないところが山盛り、
心は思うようにならないことがいっぱいある…
どうして?と悩みは尽きませんでした。
まっ、それで心の研究をはじめたわけですが。(^▽^;)
「自分=体+心+魂」と感じるようになったのは、
いつごろだったのかな?
瞑想や坐禅に没頭して「魂」の探求に明け暮れるようになり、
同時に、離婚・離職・入院…と、人生に大きな変化が訪れました。
これも今思えば当たり前。現実は自分の内面の写しですから。
その後、二度にわたる覚醒体験を経て、
「自分=魂」ということが腑に落ちました。
細かく言うと、
肉体は、人間を体験するためにあつらえたスーツ。
心には、感情と思考があり、
感情は人生のスパイス、思考は人生脚本。
で、その総監督(見守り役)が魂、本来の自分なんだ~~~!!って。
本来の自分とは、ハイヤーセルフのこと。
自分がハイヤーセルフとコミュニケーションを取れるようになると、
何が起きても、人間ライフに右往左往することがなくなって、
うーんと安心していられるようになりますよ。
私はやっとそうなれたかなぁ…
たとえ、イヤなことがあって悲しみや痛みを感じても、
「もう、コレやめとこ」って、気分を選び直せるようになったから。
気分は、自分の思考が作り出すことがわかったし、
どんなに心が荒れても、魂はぜーんぜん微動だにしませんからねぇ。
よく「自分軸」って、言うでしょう?
その軸が太いほど、心が安定しているって。
自分軸がブレないということは、ようは魂と一体化して生きている
ということなのかもしれませんね。
さて、置き去りにされていた「体」のことですが、、、
自分軸というからには、体の軸も大事なこと、この上なし!
真剣に面倒をみようと思ったんですよ。
今さら…ではありますが、
思い立ったが吉日…と。1か月前(笑)
ヨガとは別に、専門のエクササイズを習って、
体の声を聴きつつ、熱いコミュニケーションをはじめたんです。
これまで雑に扱って生じた人間スーツのほころびを、
(早い話、コリやつまりですヮ)
ひと針ひと針、縫うような気持でモミほぐしています。
(なんせ、イッチョウラですから)
考えてみれば、肉体も、物質も、地球も、銀河も、
全部、同じ元素からできている・・・
あぁ、感動。体は宇宙そのものなんだ!
もっと体とつながって、
もっと宇宙を感じるぞ~~!
ひゃっほ~~
エネルギーがぐるぐる回って、いい調子デス! (*^^)v