幸せと極楽
「あなたを幸せにします!」という台詞、
プロポーズの言葉として不動の人気らしいんですが・・・
ここまで生きて、しかも二度も結婚して、
つくづく思うことはですね、
幸せは、人にしてもらうものじゃない!
自分を幸せにできる存在は、自分以外にいない!
ということ。
たしかに、
「君を幸せにするよ」という言葉には、
心を溶かすような甘い響きがあります。
だからこそ、今は言いたいわけです。
「私が私を幸せする!」ってね。
けして突っ張って言ってるんじゃありませんよ。
誰かに依存して受け取る満足感は、
誰かの気が変わったり、条件がそろわないと、
たちまち消えてしまううたかたの喜びだからです。
まあ、そう言われても、
自分に自信がないと、ついつい、
「誰か、こんな私を愛して、幸せにしてー!」
という気持ちになるものですが。。。
はい、私も若いときはそうでした。(-_-;)
はじめのうちは、愛されてると感じることが幸せで、
もっと愛して、ずっと愛して。。。と願ったもの。
でもそれは、
愛というより、パッションだから、
それなりに落ち着きます。(早い話が、さめる)
すると今度は、
家があれば、海外旅行ができれば、もっと美しくなれれば・・・
と、新たな幸せの条件を追いかけはじめるんですね。
これが、エンドレスに続く‟不幸の入り口”とも知らずに。
なぜ不幸かというと、
叶わなければ「まだ幸せじゃない」と思ってしまうから。
そして叶えば、「まだ足りない」と思いはじめるから。
「私が私を幸せする」ことを推奨するのは、
私の幸せを叶えるべくがんばろう、ということではありません。
逆、逆!
叶わないと幸せになれないような‟条件付きの幸せ”を卒業して、
もっと自由になりましょう、と言いたいのです。
「私が私の幸せに目覚める」という感じ。
ながーい葛藤の末に、私がたどり着いた結論は、
「幸せは、なるものじゃなくて、
最初から幸せだった、と気づくもの」
どういう意味かというと、たとえば、
あなたは「不幸せ~~」と感じている赤ちゃんがいないのは、
どうしてだと思いますか?
そこに答えがあります。
大人の意識で、赤子の精神に戻れば、
私たちはみんな、ニコニコ円満に生きていけるんです。
赤子の気持ちになることを、たやすくないと思う人は、
それだけ世間の垢にまみれているのかも・・・
私は、世間の垢にまみれて、
皮膚呼吸ができなくなって、
苦しくてたまらなくなって、
もう知らん!と、いっさいの条件をかなぐり捨てました。
そうするしかなかったんです。
そしたら、本当に楽になりました。
そのとき、「これが極楽だ~~!」とわかったんです。
めちゃくちゃ、ほっとしましたよ。
だって、最初から極楽にいた幸せ者だったと知ったのですから。
極楽は、無条件。
心にしばりのない状態。
そんな自由な境地が、極楽の代名詞。。。!(^^)!