ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

おおいに遊ぼっと

うんと幼いころ、遊ぶことに夢中になって

お漏らしをしてしまい、よく親に叱られたものです。

「遊びをやめて、ちゃんと言いなさい!」って。(-_-;)

 

小学校に通うようになると、

「遊んでばかりいないで、もっと勉強しなさい!」

 

中学生になると、

「遊ぶ時間があったら、少しはお手伝いしなさい!」

 

高校生になると、

「遊んでばかりいたら、ろくな人間にならないから!」

 

とまあ、こんな調子で、

「遊ぶ」ことへのマイナスイメージてんこ盛りで、

私は大人になりました。

 

すると、どうなるかというと、

基本、まじめで勤勉。

遊ぶときは、「この程度なら許される?」とたえず罪悪感と背中合わせ。

上手に遊ぶ人に対しては、「ふまじめ!」と批判的。

 

でもね、

本音は「思いきり遊びたい」わけですよ。

時が経つのも忘れるほど、遊びに没頭してみたい!って…

 

ところが困ったことに、

いろんな娯楽に手を出しても、すぐ飽きちゃうんです。

「しょせん遊び」という頭がどこかにあったんでしょうねぇ。

 

 

そんな私が、人生の半ばを過ぎて、

この言葉に心を奪われ・・・

なぜか魂の叫びのように感じて、気持ちが変わったんです。

 

『遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん』

                 ―梁塵秘抄より―

 

「遊び」「戯れ」って何? と思いました。

調べてみると、

「遊」という字の語源は、「神様の霊がいく」。

それが「人が興の趣くままに行動して楽しむ」という意味に変わっていったこと。

一方、「戯」の語源は「おもちゃの矛」で、

「戯れる」には、「おもしろく遊ぶ」という意味があることがわかりました。

 

魂は、さまざまななヒントを与えて私に気づかせようとしたんでしょう。

「自分が、神の分け御霊であることを自覚して、

おもちゃの如きこの世で、楽しく、おもしろく遊びなさい」と。

 

そういえば、観音経の中にも、こんな言葉を見つけました。

『娑婆世界に遊ぶ』

観音様は、娑婆世界で遊ぶがごとく、楽しんで人々を救う、

という意味です。

やはり、「遊」は「神様の霊がいく」なんですね。

 

以来、私はお漏らし時代に戻ったかのように、

「遊び」に夢中。 あは!

生きていることが、ただ在ることが、遊びです。

 

さあ、あなたも、

生きているあいだにつながった人たち、仕事、趣味など、

この世にあるモノとおおいに戯れて、おもしろく遊びませんか?