ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

一瞥体験がもたらすもの

一瞥体験のあと、胸が躍るような至福の状態がつづき、

しばらくすると、

ふたたびエゴイスティックな思考や感情がわいて、

「えっ、もとに戻っちゃうの?」とガッカリすることがあるかもしれません。

 

本人としては、「すごい体験をした。もしかしたら悟ったかも・・・」

と、いっとき浮かれるので、

その感覚が過ぎ去ってしまうのがたまらなく残念なんですね。

 

そこで、忘れられない一瞥体験の記憶にしがみつき、

「もう一度味わいたい!」とバリバリに執着し、

「修行が足りない!」とガンガン自分を追い立て、

それが “迷い”とも気づかず、終わりなき探究をはじめるわけです。

 

私がそうやって長い年月さまよったことは、すでに書きました。

さまようことも、迷うことも、いい悪いでは語れないことなんですが、

このブログは、そのときの苦しみを知っている身として、

わずかでも参考になれば・・・というおせっかいで書いています。

 

 

一瞥体験をこれからする人には、

自分が覚醒したときのイメージがあると思います。

「光に包まれて、もうキラッキラ?」

「この世とはなんか別世界にいるみたい?」

「まるで神に遭遇したような崇高な感覚?」

 

間違いなく、どれもすばらしいものでしょうね。

そして、あなたはイメージした通りの体験をきっとしますよ。 

なぜなら、

一瞥体験の副産物として、

自分がイメージする世界にちょっと浸るからです。

 

「ん? 副産物だって…?」

 

はい、華やかなイメージに水を差すようでなんなんですが、

覚醒の体験自体は、じつはジミなんです。

 

「一瞬、自分が消える」・・・それだけ。

 

ところが、自分が消えるという体験をしたことのない私たちは、

その副産物である解放感の方にびっくり仰天!

すっかり感激してしまうんですね。

 

なぜなら、 自我が芽生えて以来、コツコツと溜め込んできた心の荷物、

憂うつ、不安、自信のなさ、怒り、自己嫌悪、不平不満など、

日ごろ降ろしたいと願っている負の感情が、

その瞬間なくなるからです。

 

自分が消えれば、心も消える。 荷物も消える。。。

解放感という、これまで味わったことのない強烈な喜びが

“至高のイメージ” として現れ、

 「負の感情の消滅こそが、覚醒体験だー」と勘違いする…

これが、あとでガッカリする理由です。

 

ジミな覚醒体験によってもたらされる真理は、

「自己の不在=生まれるものも死ぬものもいない」ということと、

「時間の不在=いまここにすべてがある」ということです。

 

それによって「私」という我意識が薄れていくのは確かですが、

生きている限り、思考や感情が消えることはありません。

だから最期まで、ひとりの人間として素敵に生きられるんですよ。 (*^^)v