‟自由に生きる"
「人生が終わるときまで、思いっきり自由に生きたい!」
と書きました。
あなたの「自由に生きる」って、どんなイメージでしょうか。
やりたいことする。。。ですか?
だれからも束縛されず、好きなことを好きなようにする。
買いたいものを買って、食べたいものを食べて、住みたいところに住んで、
過ごしたい人と愉快に過ごす。
でも、そう思ったとたん、こんな心の声が聞こえてきませんか?
やりたいことをやって食べていくなんて、ムリムリ。
そもそもお金がなかったら、好きなことなんてできないし、
自由を夢見ながら、不自由に甘んじて生きていくしかない・・・
いえ、いえ、とんでもない!
このブログのサブタイトルを見てください。
不自由ごっごをやめて “私”から自由になろう! です。
「自由に生きたい」と思うのは、「幸せに生きたい」からですよね。
それならば、一秒たりとも、
今感じている不自由に甘んじることはありません。
不自由にしている張本人は、“私”です。
私といっても、ゆりりんではありませんよ。(^▽^;)
“私”の正体は、自分自身が抱え込んでいる「観念」です。
「観念=思い込み」は、すべての領域に無数にはびこって、
思考や行動をコントロールしています。
私たちは、そんな観念の塊を“自分”と思っているんですね。
不自由ごっこ と書いたのは、
不自由は、真実じゃないから。
私たちは、不自由なフリをして遊んでいるだけだからです。
それがわかったのは、大いなる気づきを得たときでした。
観念の外にいる自分を見つけて、
「なーんだ、こんなに自由だったのか…」と思いました。
そして、
「~であるべき」「~をするべき」と心を縛っていた数多の考えは、
心にくっついた塵のようなものだと感じたんです。
自由そのもの。
まさに、 “本来のワタシ”は、自由の塊。
だから、観念だらけの私を受け入れているし、
観念に縛られて、私がどんなに苦しい思いをしても、
オールOKなんですね。
でも・・・人間生活を送るからには、
やっぱり、「幸せだなぁ~」と感じながら、
心穏やかに生きていきたいですよね。
だったら、
心に降り積もった塵を払って、
掃除したての部屋のように、すっきりしませんか。
で、観念は観念として、臨機応変に活用することにして、
結果にこだわらない。
人の言うことにとらわれない。
もう悩まないことにしましょう。
そうやって“私”から自由になると、
観念バリバリのときとは、正反対の体験をするようになりますよ。
このままの自分で、すごーく満ち足りるんです!