ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

家族は、近くて遠いもの。

先週、89歳の父が沖縄にやってきました。

アメリカ在住の妹に連れられて、40年ぶりに沖縄を訪れ、

3泊4日の家族旅行に出かけました。

 

美ら海水族館で、父は人生初の電動車椅子に乗りました。

最初は「車椅子はまだいらん!」と言って抵抗していたのですが、

とにかく広い。。。

さすがに歩き通せないと思ったのでしょう。

 

いざ乗ってみると、電動は自分で運転できる上に、

自力で歩くより、はるかに早くてラクチンだったようです。

まるで、カートに乗った子どもみたいに楽しそうに見えました。(^▽^;)

 

さて、水族館ですから、

訪問の目的は同じはず。

はい、普段はめったに見られない海洋生物の観察です。

 

ところが、父はジンベイザメのみがお目当てらしく、

人混みの中をドデカイ水槽めざして、一直線に突き進みます。

 

妹は、「えっ、全然観ないの~?」と戸惑い気味に追いかけ・・・

 

夫は、「おれ、先回りして水槽横の席を予約してくる」と走り去り・・・

 

私は、今回が4回目だからいいようなものの、他を見る余裕はいっさいなく、

父をガードし、

正確には、父の電動車椅子が人にぶつからないようにまわりの人をガードし、

ジンベイザメのいる水槽に無事到着。

 

そこで、ようやく顔をあげて、 

「おー、見ごたえあるぅ!!」

 

同じ場所にいても、

ひとりひとりがまるで違うものを見て、違う体験をしている。

別世界を味わっているんだなぁ…とつくづく感じました。

  

それでも外に出てからは、

「ものすごい人だったね」

ジンベイザメとマンタ、迫力あったね」などと

共通の話題を口にして、つつがなく観光を終了したのでした。

 

 

もしかしたら、

私たちは「みんな一緒」をよしとして、

実は、ものすごくまわりに合わせて生きているのかもしれませんね。

 

うるわしく表現すると、

「"気遣い" があるところに平和がある」ということになりますか。

 

この "気遣い" をサラリとやる秘訣は、

「ひとりひとり、感じていることは全然違って当たり前」と

はなから腹をくくっておくことです。

 

すると、言い合いにならないし、あっさり譲ることができますよ。

これ、実体験…

 

パートナーや恋人や親友も同じです。

つい「一緒だろう」と思いがち(思いたいもの)ですが、

違っていたとわかってガッカリした経験、ありません?

 

「ひとりひとり、感じていることは全然違って当たり前」を前提にすれば、

「あなたは今どう感じてる?」と素直に聞けます。

で、

一緒だったら、とってもうれしいし、

意外な答えが返ってきたら、

その分、相手への理解を深めることができます。

 

意外なことは、

感じ方にしろ、出来事にしろ、自分が想像もしてないこと…なわけだから、

それをいちいち「正そう」なんて考えないで、

 

全部、「ほー」って、おもしろがることにしたらいいんです。

私はできる限り、笑い飛ばしちゃおうって思いました。

そうすれば、自分自身が平和でいられるから。

 

 

 家族はいつも、

 磨き抜かれた鏡のように「私の内面」を映し出します。

 無意識のうちに、

 こちらの在り方を反映した言動を返してくる、ということ。

 それは、ありがたくもあり、こわくもある・・・

 

 

今回の親子旅は、一事が万事こんな調子で、

私は「ほー」の連続でしたが、

「なんでー!?」とイライラすることも、

自他を責める感情を抱え込むこともなく、

家族との時間を楽しく過ごすことができました。

 

沖縄に来る前、

「飛行機に乗るのも、これが最後だ」と言っていた父が、

「また来てやらな、いかんな」と帰りの機中で言ったとか。。。

楽しかったようで何より。

元気で、ガッツがあって、子孝行な親です! 

 

今さら・・・と思うことをやる!

沖縄交響楽団のコンサートに行ってきました。

楽団員は、好きな楽器を趣味で続けてきた人たち。

職業も年齢もさまざまです。

 

この楽団の指揮と指導に当たっているのが、私の友人のご主人なんです。

 

毎年行っている定期コンサートは、今年で62回、

初回から参加しているという女性奏者は、な、なんと80代!

その威風堂々としたと演奏ぶりに、めっちゃ胸を打たれました。

 

シニアとお見受けする楽団員は、他にも大勢いました。

みなさん緊張した面持ちでしたが、あふれるような喜びをたたえて、

(そりゃそうだ。練習を積み重ねて迎えたお披露目の日だもん)

私は思わず、

「よかったね、好きなことをずっとやってこられて。かっこいいよー!」

と叫びたくなりました。(*'▽')♪

 

 

私のまわりには、人生の半ばを過ぎて、

「ずっとやりたかったことにチャレンジするぞー!」

という人が、なぜか多い。(笑) 

まあ、私もその一人なので、類は友を呼ぶのかも。

 

でね、

「今さら・・・」という観念に縛られずに生きようとする人が、

着実に増えつつあるな…と感じています。

 いいことですよねぇ。

 

と書いていますが、以前は(もっと若かったのに!)

「今さらできない」とか、

「今からはじめて、なんになるっての?」と考えて、

本当はやってみたいのにあきらめてしまったことがありました。

 

今さらそれをしてなんになる……は、頭で考えること。

それでも本当はやってみたい……は、心が求めること。

 

言い方を変えれば、

前者は、常識、倫理観、世間体、損得勘定に基づき、

後者は、夢、ワクワク感、喜び、生きがいに基づきます。

 

人生とは何か、生きるとは何か…

という価値観の違いが、そのまま両者の違いになって表れるんですね。

 

 

私たちはずっと、支配する側から都合のいいように、

「社会性があって生産性の高い行動がよい」

という価値観を刷り込まれてきました。

 

その結果、「個人的にやってみたいだけのこと」は、

「時間とお金の無駄遣い」と思わされてきたんです。

 

でも、これ、勘違いですよ~~!

 

イキイキ、ワクワクして生きられなかったら、

人生が終わるときに後悔するのは、自分自身です。

 

なんのための人生か、

その答えは、「自分を生き切るための人生!」

と、私は声を大にして言いたい。

 

自分がやってみたいことをどれだけやれたかが、

「我が人生に悔いなし」という満足感と、

「思いきり生きた、おもしろかった」という歓喜をもたらすのです。

 

 

もし、今あなたが、

がまんとあきらめの中で、つまんないナ…と感じて生きていたら、

どんな小さなことでもかまわないから、

社会性や生産性が乏しくてもかまわないから、

 

それをやっている自分をイメージすると、

なんか胸がときめく…ということに、

勇気を出して挑んでみませんか?

 

お金や体力や時間の心配をするのは、エゴの仕事。

それをしてなんになると考えるのも、エゴの仕事。

 

それに心をとられないで、

ささやかな楽しみを、ぜひ自分に与えてあげてください。

 

あなたが「よし、やってみよう!」と決めると、

あなたの心に希望の灯がともるでしょう。

小さくても確かな、そんな喜びの炎を感じてほしい。。。

 

 

えっ、私ですか?

これからやってみようと決めたことはあるのかって?

 

ありますとも!

「ゆう琴」という竪琴を自分で作り、奏でること。

(だれにも聴かせず、一人ひそやかに…むふふ)

 

参考までに「ゆう琴」とは、

どの弦を弾いてもきれいなハーモニーが響くように調律できるので、

決まった弾き方がないんです。

早い話が、練習の必要がない。(コレ決め手。笑)

楽譜の世界から離れて、心の趣くまま、自由に奏でることができるという。

 

そんなお手軽で、壮大な音の世界に挑んでみまーす!!

 

今見えているままを、そのまま見る。

沖縄へきて初めての秋。

昨日、今日と雨でしのぎやすい。

最高で22度くらい。

こっちの人は「肌寒い」と言う。

明日はまた夏日に戻ってしばらく続くそうな。。。

 

 昨日よりどうだとか、例年よりどうだとか…

気候に限らず、私たちは何でも、

「比較する」ことで自分や物事の状態を認識します。

 

モノの値段だって、人の好感度だって、自分のデキだって…

私はあの人と比べてここが勝っているとか、劣っているとか、

いつも比較して「いい・悪い」を判断しますよね。 

 

人間という生きものは、

人の目を通して、自分自身を知ると言われますし、

相対的な世界に暮らしている以上、

何かと何かを比べるのは当たり前、やむを得ないことなのかもしれません。

 

でもね、

比べればわかるんだからいいじゃん、と思ってしまうと、

相対的にしか物事を見ない自分で、ずーっと生きていくことになります。

 

それってもったいないな、と思うんですよ。

 

絶対的なものが存在するのに、それを知らずに死んでいくなんて。

その絶対的な世界に、本来の自分がいるというのに・・・

その絶対的な世界に、魂は帰還するというのに・・・

 

絶対世界は認識できない、と思っている人にはむずかしいだけで、

少しも不可能なことではありません。

そこに意識を向け続ければ、必ず何らかの「気づき」が訪れて、

感覚でわかるようになっているからです。

 

だって、もともと自分がいたところなんですもの。

 

そのとき、

物事を比べることにまるで意味がないことを実感するでしょう。

そして、

自分という人間は、この相対的な世界で唯一のキャラなんだ。

このキャラには、オワリがあるけど、

今世このキャラを生きたイノチは、永遠に在り続ける…

…ということを叡智として知るんですね。

 

私たちはみんな、

「今の自分」というキャラを体験中なんです。

比べて落ち込むのも、悲惨な気分になるのもOKですが、

それは〝怖いもの見たさ〟を楽しむつもりならば。。。

 

もし、そんなことは望んでいないなら、

「今の自分」をそれ以外のモノと比べるのはやめましょう。

自分とそれ以外のモノすべて・・・

大元をたどれば、そこにあるのは「ひとつのイノチ」だけなのです。

 

この絶対世界の真実を、一度でも垣間見たら、

比較して心を悩ませるより、

今しかない、今しか触れ合えない事柄に心を燃やしたい!

 

目の前にいる人や自分の〝イノチの表現〟を、

ただあるがままに受け止めよう、すべて受け容れよう!

と思うはず。

  

自分をほかの人や過去の自分と比べないと、

芋ずる式に浮上する劣等感・後悔・屈辱感におそわれなくてすむので、

本当にストレスが激減します。

  

これが安楽のはじまり。

安楽は、宇宙の在り方そのものです。

 

宇宙的な人って、今見えているままを、そのまま見て、

いっさい「比べない」人のことなんです。(*^^)v

 

台風、あーだこーだ

台風24号、あなたの地域は大丈夫でしたか?

 

沖縄は本当にたいへんだったようです。

だったよう…というのは、

私はちょうど名古屋(実家)に行っていたんです。

 

沖縄に台風がやってくる前に発って、

名古屋のマンションの11階で暴風雨を体験し、

1日午後、南城市の停電が復旧したころに戻りました。

(2日現在で復旧していない地域もあります)

 

航空券はずっと前に買っていたので、

台風情報を見ながらどうなるのかと思いましたが、

私は予定通りに動いて、

停電の中で3日間過ごさずにすんだわけです。

 

でも沖縄に戻ると、

街路樹は倒れ、まわりの植物は塩害で茶色くなり、

この部屋のベランダや窓ガラスには、木の葉が張り付き、

冷凍庫のモノは一度溶けて、ふたたび固まっていました。(>_<)

さっき、片付けが終わったところ。ふ~

 

私の体験なんて取るに足らないものですが、

それでも改めて、

当たり前の生活が、当たり前にできることのありがたさが

身に沁みました。

 

 

でね、

ふと、こんなことを思ったんです。

 

しあわせって、簡単になれるんだよなぁ…って。

 

目の前の風物や、

今手元にあるもののありがたさに、気づくだけでいい。

 

自分に備わっているもののすばらしさに、

気づいて感謝するだけでいいんだ…って。

 

こんな自分じゃダメだとクヨクヨしたり、

どうして私ばっかりとイライラしたり、

これじゃまだ足りないとガツガツして、 

ずいぶんネチっこく、自分をさげすんでいじめてきた。

 

幼いころから「もっとがんばれ」と言われ続け、

「自分はこれでいいんだ」と満ち足りる体験を

ほとんどしてこなかったせいかもしれない。

 

でも・・・

今さらだろうが、なんだろうが、

”無条件のしあわせ“ に、気づけてよかった。

 

こうして自分が生かされていることが、

すでにしあわせなんだ・・・

 

そのことに気づけて、本当によかった!!

 

 

この次は、

台風25号の動きから目が離せませんね。

備えましょう。

台風は、その土地を浄化してくれるという見方もあります。

それで過ぎ去ったあとの空気はあんなにさわやかなんだと——

 

物忘れ、過去忘れ

最近、物忘れがひどい。

あ、認知症じゃないですよ。(笑)

 

ただ、過ぎたことを上手に思い出せない。

特に、過去になめたイヤな感情は出てこないし、

絞り出してもまったく生々しさがない。

 

これは、精神的にはとてもラクなんですが、

ああだったよねぇ…と同意を求められても

あやふやな返事しかできなくて・・・

 

自分の過去なのに、

知人の体験を話しているような感覚なんです。

 

で、話しながら、

「私、こんなストーリーを一生懸命生きてたんだなぁ…」と

なつかしく感じたり、

「あのときはまるでわかってなかったんだよね」と

自分に同情する始末。

 

 

もしかしたら、

ボーッとすることを自分に奨励しすぎて、

記憶喪失気味?と案じなくもないんですが、

そこはもう少し前向きに考えることにして、、、

 

「今」に生きることが、それだけ上手になったのかも!

と思うんですね。

 

「今」に心を置いていると、

今、今、今…と、たえず今が更新されていくので、

過去の感情を持ち続けるのはむずかしくなります。

 

記憶がみるみる上書きされていく感じで、

ついさっきのことも、その場を離れたらまた上書きされて、

最新の「今」しか心になくなってしまう…

 

ましてや何年も前の記憶は

せーの、と掘り起こさないことには出てきません。

 

 

 

でもねー、

以前はまったく違いました。

 

イヤな感情をよみがえらせるような”呼び水”があると、

あっというまに心は「今」から離れ、

あのときは…あいつは…私は…と過去にタイムスリップ。

 

そんなことをしてなんになるのかというと、

なんにもならないんです。

それどころか、忘れたいのに忘れられない記憶にしばられて、

つらいだけ。 

目の前の「今」をめいっぱい楽しむこともできません。

 

そんな自分に嫌気が差して、

「今」に生きる! と一念発起。 

「今」に心を置くことを猛烈に意識して、真剣に挑みました。

 

ふとイヤな感情がよみがえったときは、

その情景を、あたかも車窓から景色を眺めるように、

黙って素通りさせてしまうんです。

 

とらわれないということは、”続き”を考えないということだから。

 

そうしてすぐ「今」に戻ることをやり続けるうち、

少しずつ、イヤな感情をやり過ごす要領がわかってきました。

 

 

すべての感情は、思考によって引き出されます。

ある考えを持っているから、そういう気持ちになるわけです。

つまり、

感情をうまくやり過ごせたときというのは、

それにまつわる思考を葬ることができたときなんです。

 

私はあまりにもたくさん、幸せの役に立たない思考を葬ってきたから、

ちょっと記憶喪失気味なのかもしれませんが…(^▽^;)

 

まあ、そのくらい、人間は無意識でいると、

いらない思考に明け暮れてしまうものなのでしょう。

 

「今」に心を置けるようになると、

不思議なことに、人生から”問題”がどんどん減っていきます。

 

なぜなら、 何かを問題視して思考をふくらませるには、

「今」という時間は短すぎるから。

 

その短い「今」には、

その瞬間にしか存在できない感覚が刻まれていきます。

それが”感動”です。

 

感動は「今」にいるときしか味わえない感覚。

記憶に組み込まれたとたん、色あせてしまうものなんですね。

 

 

そんな貴重な感動を取りこぼさない体質になっていくなら、

物忘れが進んでいるような気がしても、

よしとしようではありませんか。

 

そうそう、いい話を思い出しました。

「1日10回以上感動する人はボケない」らしい。

シメシメ…(*^^)v 

 

カタツムリを笑えない…

あのですね、

タツムリの話に感動したんで、

それを伝えるためにちょっとややこしい話から。。。

 

 

――現実は、過去から未来に向かう「時間」とともに移り変わる

というのは、人間が作り出した概念(幻想)で、

実際は、超高速で、現実は一瞬一瞬現れては消えている――

 

そんな話を聞いたことがありませんか?

えー、うっそ・・・と思います?

 

仏教では、これを『旋火輪』(せんかりん)、

旋回する火の車輪、に例えて伝えています。

では、

大男が先端に火のついた縄を勢いよく回している場面を想像してみて。

と、まるで火のついた車輪が回っているように見えますよね。

実際は、火のついた縄がパッパッパッと瞬時に移動しているだけなのに・・・

 

これは、真理を見誤るなという「時間」に関する教えです。

 

 

で、ここからカタツムリの話!

 

ドイツの生物学者で哲学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルが、

『カタツムリを棒でつつくと、どんな行動をとるか』

という実験をしたそうな。 

タツムリにとってはいい迷惑ですから、その棒をよけようとして、

「やめてー」と言わんばかりに殻の中に隠れたり、

「じゃま、じゃま」と方向転換を試みようとします。

 

ここまでは、あなたの想像の範囲でしょう。

ところが、これを1秒間に4回以上の速さで小刻みに棒でつつくと、

どうすると思います?


なななんと、タツムリは棒をよけず、

その棒にはいあがろうとするんだそうです。

どうしてそんな行動に出るんでしょうか?

 

タツムリは、「1秒間に4回」より速いスピードは知覚できないために、

それより速く振動する物体は、「静止している」と思っちゃうらしい。

タツムリにとってその棒は、見た目にも、触った感じも、

「動かない硬い棒」としか映らないんですって。(◎_◎;)

しかもですよ。

人がつついている迷惑な棒は存在しなくて、

静かにじっと存在している棒があるだけ…になってしまうという。

 

ここまででもびっくりなのに、この話にはつづきが・・・


同様に、人間が知覚できる感覚は「1秒間に18回」とのこと。

それより速く振動するものは「静止している」と認識してしまうんですって!

 

これを利用したのが映画。

1秒間に18回より速いと、その瞬間を認識できない人間は、

1秒間に24回変わる静止画像を、まるで旋火輪を見るように、

スムーズに動く映像(火の輪)として認識して楽しんでいるわけです

 

 

ふーん、と感心したところで、冒頭の話に戻って・・・

 

――現実は、過去から未来に向かう「時間」とともに移り変わる

というのは、人間が作り出した概念(幻想)で、

実際には、超高速で、現実は一瞬一瞬現れては消えている――

 

超高速すぎて、カタツムリがつつかれている棒を認識できないように、

人間が知覚することはむずかしくても、

現実は、プツプツ切れ切れになっています。

 

それを知ったあなたは、

プツの瞬間に放つ思い(念)を変えれば、

現れる現実を変えられる、現実は一直線に続いているものではないから。

 

ただし、半信半疑だと、

どうせ変わらないという内奥の念が次の現実を生むので、

何も変わらないや…ということになってしまうんですね。

 

「時間」の概念も同様。

3次元世界のルールでは、時間は過去から未来に向かうとされているけど、

実際にあるのは「今」だけ。

今、今、今が、瞬時に現れては消えているだけなのです。

 

だから、過去を引きずることも、未来を心配することも、

幻想にとらわれてやってしまいますが、

本当はまったく必要のないこと。

 

やめやめ、無駄なことはやめましょう!

 

あなたは「今」以外のときに、

これまで生きていたこともなければ、

これから行くこともないんですよ。

 

美ら海 にて…

沖縄に引っ越してきた、この夏。

台風の多さにはびっくりしていますが、

カーッと晴れると、ムズムズしちゃいます。

 

美ら海に行きたくて・・・

 

それはそれは美しいビーチまで、うちから歩いて10分なんです。

いそいそと島ぞうりをはいて出かけ、

海で素足になって、長い砂浜をピチャピチャ行ったり来たり…

ときには、かなたに水平線を眺めながらプカプカ浮かんでいます。

 

ずうっと山で暮らしていたせいでしょうか、

海と戯れるひとときが妙に新鮮で、し・あ・わ・せ・・・

 

でもね、

プカプカ浮いてる(なぜか泳がない浮き枕派)ときは、

小さく区切ったセイフティネットの内側なんです。

 

やだやだ、海はあんなに広いのに、どこで浮いたっていいでしょ!

とまあ、最初は思ったわけですョ。

で、

ビーチの端っこの岩場で釣りをしている若者に聞いてみました。

 

「あのう…ネットの外で泳いじゃいけないの?」

「ああ、あれね、ハブクラゲ除けさ。別に泳いだっていいよ」

ハブクラゲって…ハブとつくからには、かなり危険?」

「うん、刺されたら救急車」

「・・・」

「だから、だれも泳いでないっしょ」

 

そこまで言われて、

あえて外側に乗り出す勇気はまるで持ち合わせていません。

スゴスゴとふたたび網の中へ…

なんだかなぁ、秋刀魚になった気分…

 

こうなったら頭のほうを切り替えるしかないと、

目をつぶった。

プカプカ~~ユラユラ~~

おー、大海原を漂っている気分だー!!

 

 

何を取るかは、いつだって本人の自由なんですねぇ。

ということは、

どんな感情に浸るのもおぼれるのも自分しだい、ということ。

これまで生きてきて、つくづくそう思います。

 

探せば必ず見つかるものが、不満だから、

なにかのはずみでその種を見つけても、

そこにはフォーカスしない、

それ以上、不満をほじくり出さないことにしました。

 

これは、嫌な人に出会ったときも同じ。

その人のいいところに意識を向けるか、

それもムリ~と感じたときは、さっさとその人から離れます。

 

そうするとね、ものすごく気がラクなんです。

 

いま、「そう簡単にはいかない」と思った人は、

簡単にはいかない現実を創り続けちゃうかも・・・

「私は簡単にゴキゲンになれる」と思ったほうがいいですよ。

 

とにかく、気は、とても有効で貴重なエネルギーだから、

自分が楽しい~と感じることに使いましょうネ!

 

 

さて、美ら海の後日談。

 

浮き枕にあごを乗せてプカプカ浮いてたら、

なにやらシャーっという音が・・・

RESCUE(レスキュー)と書いたサーフボードがすく横に。

「こんにちはー!」と白い歯を見せて微笑むお兄さん。

「こんにちはー!!」と負けないくらい微笑む私。

 

もしかしたら、私が気絶してるかもしれないと思って見にきてくれた?

もう、爆笑。(^▽^;)

 

でも、網の中にいたら様子を見守ってくれるんだぁと思ったら、

あーんしんしちゃいました。

ライフセーバーのお兄さん、ありがとう!

 

で、もし網のないところで泳ぐときには、

ウェットスーツを着ればいいんですよ。

スポーツ用の長袖アンダーウエアでもいけるかも。

そうやって準備を整えれば、

シュノーケルだって存分に楽しめるし、

日焼け防止にもなって一石二鳥です。