ありのまま、なるがまま

不自由ごっごをやめて ”私″から自由になろう!

ほどけた心

前回のブログ、「奇跡だ~!」に書いた、 

 ――いろんな出来事や体験に、もともと意味はなくて、 

   意味は、自分が自由につければいい。

   それによって人生の展開が決まる――

について、もう少し書きます。 

 

ひとつの出来事は、無数の背景があって生じます。

無数ということは、

○○のせいと簡単には決められないし、

いい悪いを一概には決められない、ということです。

 

出来事は、淡々と、永遠に、起こり続けます。

それが宇宙の営み。

どんな出来事にも、もともとの意味はありません。

 

出来事に意味をつけるのは、あくまでも本人。

自分が解釈の仕方を自由に決めているんですね。

 

もっと言うと、「解釈=自分」

どう解釈するかで、今の自分はこう、と見せているのです。

 

「変わりたくても変われない」と思うのも、

「私ばかりついてない」となげくのも、

ほかの人の意見を鵜呑みにするのも、自由です。

 

「大切なことに気づけてよかった」と思うのも、

「これですんだのだから運がいい」と感謝するのも、

自分の信念を貫こうとするのも、自由です。

 

そして私たちは、

自分が解釈した通りの感情を味わうようになっています。

 

結局はそうやって、

ひとりひとりが、それぞれの現実を選んでいるということです。

 

そういうと、

「プラス思考が大事!」と思われがちですが・・・

 

もちろん、それが自分のものになっていれば問題ありませんが、

「マイナスはダメ、プラスに考えるべき」にこだわってしまうと、

本末転倒。

心はもっと不自由になります。

 

 

そこで、提案!

 

不本意な出来事に出くわしたら、

「出来事を突き放す」というのをやってみませんか。

 

うたかたの出来事に感情をもてあぞばれて、

過去から未来に続くストーリーを紡ぎ出さないこと。

それで頭をいっぱいにしないことが、

本当に重要だから。

 

我関せず…を決め込んで、

いっさいジャッジしない!

心を動かさない!!

 

心を動かさないと、どうなるか…?

 

ジワジワと、自分への愛があふれてきます。

 

だって、あなたの正体は愛だから。

「いいよ、いいよ、なんとかなる、大丈夫!」

そんな ‟ほどけた心” がよみがえってくるでしょう。

 

ほどけて、ほとけて、ほとけ(仏)になる・・・

 

許す心も、癒す心も、励ます心も、

仏心は、すべて愛のバリエーション。

それは絞り出すものではなく、沁み出てくるものなのです。

 

また、心を動かさないと、

物事の結果や、人の動向も、自然と気にならなくなりますよ。

 

なぜなら、

そんなことより、自分への愛を感じていることのほうが、

はるかに価値があると思うようになるからです。

 

自分への愛と書きましたが、

愛に、自分用とほかの人用の別があるわけではありません。

愛は一元です。

 

一元の愛で、あなたの人生を展開させていきましょう! 

 

奇跡だ~!

― 絶対感謝 ― 

これが生きる信条、というか、

もうこれしかありません…という感じ。

 

何に感謝しているのかというと、

すべて。

すべてだから、絶対なんです。

 

 

振り返ってみると・・・ 

 

「いい悪い」という判断をしなくなって、

目の前の現象は自分の心の写し、と知ってから…

 

いろんな出来事や体験に、もともと意味はなくて、 

意味は、自分が自由につければいい。

それによって人生の展開が決まる、とわかってから…

 

人間として地球に生まれて、このような、

 人間から見れば、手の込んだ、

 宇宙から見れば、超シンプルな、

ものすごい体験をしていることを、

「これは奇跡だ~!」と感じるようになったんです。

 

そんな奇跡の中で生かされているんだなぁ…と思うと、

たまらなくありがたいんです。 

 

絶対感謝とは、

何があっても絶対に感謝の心をなくさないこと。

そういうと、

不幸な出来事も? 病気も? 家族の死も? 

と思うかもしれませんが…

 

不幸を感じるのは、それまでが幸せだったからでしょう?

病気になる前は、健康だったんだし、

家族が亡くなるまでは、一緒に生きていたわけです。

 

そうやって見方を変えたとき、

不幸にも、病気にも、肉体の死にも、

それが存在する意味を見出すことができました。

 

見出すと、どっと感謝があふれます。

これが、‟気づき” 。

 

気づきは、自分にとっての真実であり、小さな目覚めです。

 

この気づきを何度も何度もくり返して、

感謝は深まっていくんです。

 

 

うーん、感謝はしてるけど・・・

と「けど」が口を突いて出るうちは、

いい悪いの判断がいっぱいあって、

いいときだけの感謝になっているのでしょう。

 

でもね、

「絶対感謝で生きる!」とコミットすれば、

心はいつも、ありがたいことを必死に探します。

 

すると、

ありがたいことを探すのがだんだん上手になっていって、

それが普通、それが当たり前になったとき、

絶対感謝が生まれます。

 

本気でコミットしませんか。

そして一緒に、「これは奇跡だ~~!」と叫びましょう。

 

気づくと、消える

気づくと、消えるものを発見!

 

それは、ふいと表れたエゴ意識、‟自我” です。

 

自我は、己の心身を守ることが使命なので、

目を皿のようにして問題を探しては、

「このままではいけない!」と訴えます。

 

そして、不安、猜疑心、焦り、劣等感など、

不快な感情をあおって、「自分を守れ」と迫ります。

 

以前の私は、

自分の損得しか考えない自我に嫌気が差して、

ああ、解放されたい!

早く安心、信頼、平和、与える心に浸りたい!

と願いました。

 

だけど、

自我を何とかしようと思えば思うほど、

自我はデーンと居座ったまま、消える気配がありません。

 

それもそのはず、

無理やり消そうとすればするほど、

自我はあらゆる観念を持ち出して、抵抗するからです。

 

でもでも、

存在に気づいて「いたねぇ」と言うと、引っ込む。 

なんと、その場から消えるんです!

 

一番仲良くしたい心身と仲良くするのに、

自我と戦って、力を消耗することはありません。

ただ、気づけばいい。気づくだけ…

 

不快な感情に対して、

「いやだ、どうしよう」とか、

「困った、なんとかしなくちゃ」と考えはじめるのは、NG。

 

「あ、めっけ」とか、

「今日も張り切ってるネ」と思うだけで、OK。

それ以上、頭も心も使わないことが鍵です。

 

私はこの仕組みがわかってから、

自我と格闘したり、葛藤することがなくなりました。

 

 

考えてみれば、

自我は、世界にひとつだけの個性、

マイ・人間スーツの「特注パーツ」ですもんね。

 

日々、身の安全をバッチリ守ってくれます。

だから、自我を否定しないこと。

 

その代わり、

自我と同じ土俵には立たない。 

自我に同調して(恐れて)自分を動かそうとしないことが大事です。

 

この地球という相対的な世界にいる限り、

自我があおり立てる不快な感情を、体験せざるを得ないけど、

それがあるから、

対極にある喜びや安らぎ、感動などを、快感として味わえるんです。

 

それをつくづく感じると、 

「自我もがんばってるナ」という気持ちになるかもしれません。

 

 

私たちは、

人生を体験するのにいらないものは、ひとつも身につけていません。

それぞれの人間スーツは、完璧です。

 

だから、自我に悩むなんて、やめ、やめ、やめですよ。

 

人間として人生を体験しているあいだは、

自分にあるものをフル活用して、

うーんと笑って、たっぷり泣いて、楽しく生きていきましょう! 

 

無駄そうなことしよっと

私は人生のどん底で、

宇宙の圧倒的な愛に包み込まれたとき、

「なんとかなる…大丈夫だ!」と感じました。

 

そのときの体験は、

今となっては記憶の1ページですが、

そのときの気づきは、

生きる目的を完全に変えました。

 

 

私たちはみんな、

人間として地球に生まれて以来、

「自分はいったい何者なのか?」を思い出すゲームに夢中です。

 

それは本来、胸躍る楽しいゲームのはずなのに・・・

 

向上心に燃えてがんばる、まじめな人ほど、

自分に鞭打って苦しみ、 

効率や合理性にこだわる、左脳人間ほど、

「好きなことをして遊ぶ」のがヘタです。 

 

現に、私も、

生産性を高めようとして、ことごとく無駄を排除し、

遊ぶことに罪悪感を抱きながら生きていました。

 

でも、ついに気づいたんです。

 

人生には、

こうでなければならないことなど、ひとつもなく、

こうでなければならない自分も、いないということに。。。

 

 私たちは宇宙から、

「好きなことをして遊んできなさい」と送り出された、

尊いイノチです。 

 

常識的、合理的に生きるために、

地球に転生してきたわけじゃありません。

 

それぞれが本当にやりたいことをして、

「ああ、このゲームおもしろかったぁ!」と

喜々として宇宙に還るためにやってきたんです。

 

あなたも、私も、

大いなるイノチの、かわいらしい表れ。

圧倒的な愛に抱かれて、思いきり遊びましょう。

 

だって、地球で過ごす時間は、

ほんとは、パチンと指を鳴らすくらい短いんだから!

 

断捨離(だんしゃり)

ここ数日、何をしていたかといいますとね、、、

 

引っ越しの日取りが決まってからあわてないように、

まずは仕事部屋を整理しようと思い立って

「断捨離」に着手したんです。

 

だけど、

とてもじゃないけど、

ただいま断捨離中! なんて言えません。(>_<)

 

むかし書いた原稿の箱を、ひとつ開けては読みふけり、

もひとつ開けては、「おー小説もあった」と

また読みふけり・・・

まったく片付かないまま、むしろ余計に散らかった状態で、

ときが無情に流れていきました。

 

いやあ、まいった、まいった。

 

過去の自分の一部と思うと、葬ることができなくなるのか…

それとも、

過去の原稿を読んで、ちっとは成長したと安心したいのか…

と、

はかどらない言い訳を並べてもせんないことなので、

心の中を探ってみると…

 

過去に未練はないものの、妙になつかしかった。。。

 

過去の自分が、他人みたいで、別人のようで、

「うんうん、よくがんばったね」みたいな感覚だったんです。

  

写真もそうですが、

自分のストーリーに執着すると廃棄できなくなるけれど、

心が「いまここ」に戻ると、

もう必要じゃなくなって、捨てることができるのかもしれません。

 

 

さて、これから取り組むのは、衣類と小物。

「もったいない」「いつか使うときがあるかも」・・・

という感情と戦うとヘロヘロになるので、

(何度も経験ずみ…)

 

捨てるものを選ぶより、

着たい、持ちたい、と思うものだけを選ぶ。

という線でいってみたいと思います。

(自信はないけど…) 

 

断捨離は、もういらない感情との決別! 

心の在り方から、シンプルライフをはじめよう!

 

はいはい、わかっていますとも。

 

でもねぇ、

問題は、どうしたら迷わずに破棄できるかよ、と悩んでいたら、

書類のあいだから、こんな走り書きがハラリ・・・

 

『もし問題が解決できるなら、なぜ悩む。 

 もし解決できないなら、悩んでなんになる』

         ―チベット仏教の教え「シャンティディバ」―

 

わぉ! コレできすぎじゃない!?

ウケちゃいました… (^▽^;)

 

日記風 つぶやき

私は、自分の内側から離れることはできない。

 

自分の内側にあるものが投影された世界を、

現実として体験するのが、私の人生だ。

 

内側には、いったいなにがあるんだろう…

 

複雑な心? 

 

複雑にしているのは、だれ?

 

それは、私。

いつも一瞬の感情をつかまえて、

長い物語をしゃべりはじめるから。

 

その感情は、風が吹き過ぎるように、

とっくに過ぎ去っているはずなのに・・・

風に当たった痛みの記憶が、

幻影のように残っているだけなのに・・・

 

私は、その幻影に昔話をくっつけたり、

ほかの人と程度を比べたりして、

これでもかと気力をなえさせる物語を紡ぎ出す。

 

そんなバカげたことは、もうやめたつもりだったけど、

私の観念はそうとうしぶとい。

油断すると、

今度は「観念を消すべき」という観念にはまり込む。(-_-;)

 

 

さあ、さあ、自分の内側にある、

もうひとつの「離れられないもの」に意識を合わせよう。

 

目を閉じて、大きく息を吐いて、体を感じるんだ。

そうやって、自分の内側に入っていく。

深く、もっと深く・・・

 

観念や感情を超えたところに向かうために。

 

静寂とやすらぎだけがある、私不在の場所へ。

 

そこには、別の宇宙がある。

 

見えない次元で息づいている、

「ひとつのイノチ」につながって、“本来のワタシ” に帰ろう。

 

 

と、ひとりごとをつづりながら、

書いては消し、また書いては消し・・・(>_<)

そんなときもあるヨネ、と開き直って、このままアップします。 

 

トホホのときは・・・

頭人間から、直感人間へ!

さらば、我が段取り人生~~~!!

 

と叫びたくなる。

 

叫びたくなるということは、

まだまだ、段取り先行で頭を使って、

気が滅入っている証拠っす。トホホ

 

だって、

さらば、太めの自分~~~!!

と叫びたくなるのは、

やせられなくて気が滅入っている証拠でしょ。

 

本当にやせたら、

気にもならないし、叫ぶこともないでしょう。

 

 

さて、そんなトホホのときはどうするか・・・?

 

かつての私なら、

激しく自分を責めたでしょうねぇ。

何かというとすぐ「情けない」って思いましたから。

 

ちょっと前の私なら、

「まいっか」ですませたかも。

何事も「いい/悪い」で判断しなくなりましたから。

 

で、現在の私はというと、

「おー、よしよし」と滅入った心を抱きしめて、

そんな体験をしている自分に、ただ気づいている・・・

 

もう、自分を責めたり、

出来事と自分を分けなくなった代わりに、

自分の体験を “全体”(ソレ)の表れのひとつ

と感じているんですね。

 

 

私たちは普通、「自分が○○してる」って思いますよね。

でも、ホントは自動的にさせられている…としたら?

“全体”(ソレ/本来のワタシ)が、

ひとりひとりを通してすべての体験をしている…としたら?

 

今の私と、これまでの私の違いは、

そのことに気づいているか、いないかだけなんです。

 

言葉にすると、ひえーっと思ってもわかりにくい?…(-_-;) 

 

でも、この違いは大きくて、

気づいて以来、私の辞書から

「思い悩む」「不安におびえる」が消えました。

 

人生は自分のものじゃない、とわかったから。

自分のものと主張する “私”がいない、と気づいたから。

それが覚醒です。

 

そのとき、私は “全体” とひとつでした。

 

かたや、現実世界には、

物語の続きを生きている私がちゃんといて、

やりたいこともあれば、ほしいものもあります。

そこに、

「“全体” に気づいている意識」が加わったんですね。

 

例えれば、

お正月に、普段とおんなじことをしていても、

「今は “お正月”だ」と気づいている自分がいませんか?

そんな感じ。

 

えっ、まだわかりにくい?…(^_^;)

 

それでも、とにかく、あなたは “全体” の表れなんです。

いつか、必ず思い出しますよー!