宇宙の愛から生まれた私たち
2022年が終わる…というよりは、
激動の3年間が終わる…という感じが強い。
激動といっても、
コロナ禍で私がやっていたのは、
積極的に自分の奥へ奥へと入っていくこと。
はたから見れば、
おとなしく引きこもって、
ひとり時間を粛々と過ごしていただけですが…(笑)
でも、本人にしてみれば、
2年かかってようやく夢物語から目覚め、
最後の1年は天地いっぱいの愛に包まれていました。(*^▽^*)
夢物語とは、
自我が紡ぎ出す思考のストーリーのことです。
自我は、過去の自前のストーリーの不満をもとにして
未来の不安をあおることしかしないから、
どうしたって息苦しくなってしまう。。。
その自我を、相手にするのをやめたのです。
自我をスルーして、夢物語にとらわれなくなった結果、
「ありのまま、なるがまま」を楽しめるようになりました。
この現象を、目覚めといったり、覚醒といったりしますが、
具体的には、
〝大いなる気づき〟が訪れて、〝気づいている存在〟になる感覚。
この目覚めは、
どんなにがんばっても自我には引き寄せられません。
なぜならそれは自我が消えたときに届く宇宙のギフトだからです。
今日は、何とかしてその感覚を分かち合いたいと思います。
今から書くことをぜひ試してみてください。
リラックスして、遊び心でね。(^_-)-☆
まず、(日中という前提で)
あなたのいるところから外を眺めると、何が見えますか?
あなたはたぶん無意識に、
目に映ったものの名称を思い浮かべるでしょう。
「空」「雲」「建物」「植物」という感じで。
次に視線を落として、膝あたりを見てみしょう。
「私の足」とか「人間の足」と思うかもしれません。
さてここから。
今見たものの「名称」を、意図的に外して、
もう一度眺めてみてください。
たとえば、空を見たら、「空」という字を消す。
「そら」という言葉を横に置く、と決めて、
〝なんでもないソレ〟を眺めます。
同様に、「雲」も「建物」も「植物」も、
「私の足」も、名称や呼称を消去して、
〝なんでもないその存在〟を、ただ眺めます。
「名前のない全体」を見まわして、
今までと違う何かを感じたら、それを静かに味わって。
別に何も感じなくてもOKです。
これはいつでもできるから、遊び心でやると、
言葉から離れて感覚を研ぎ澄ます、いい練習になりますよ。
私がそのとき感じたのは、
「ぜーんぶつながっている…」という〝一体感〟でした。
名前や呼称は、分離して判別するためのツール。
もしもそれがなかったら、
みんな同じ宇宙の表れなんだって。
最近は、一体感と同時に、
宇宙の〝躍動〟というか、息吹のようなものを感じます。
それがどんどん強くなって、
私は「ヒト」と呼ばれる形で今ここに表れているだけで、
宇宙と一緒に息をしているイノチ。
イノチは・・・宇宙の愛。
私たちはみんな、
毎瞬、宇宙の愛を吸って…吐いて…を繰り返している、
愛そのものなんだ…と、痛いほど感じます。
宇宙の愛でできている、あなたと私。。。
すべての存在がそう。。。
それはもう、言葉にならないくらい素敵なことなんです。
来年もまた、こんな独り言を聞いてくれますか?
ありがとう!
どうぞよいお年を💖
衝撃的な体験!
~~今日も日記風~~
我欲の詰まったガラスビーカー(自我)の底が抜けて、
『真抜け』になり、
その後、残っていたガラスの筒も砕け、
私は過去の自分(概念)から釈放されたように自由になった。
というようなことを4か月に渡って書いてきたけれど、
想像を絶する続きが・・・それを記しておきたいと思う。
ガラスビーカーは、自我の象徴のイメージ。
宇宙に飛び散ったガラスの破片は、
日を追うごとにまあるくなり…
少しづつ小さくなり…
ある日、ふっと消滅してしまった。
ようは、私が・・・消えた。
そのとき思ったこと。
「私はいない」というのはコレだったのか…
目は見えているし、音は聞こえている。
だけど、それは私の目じゃないし、私の耳じゃない。
まるで全体意識が見聞きしている感じ。
全体が、ワタシ。(これは自我の私じゃないョ)
全体は、
いうならば、空間。
空気といってもいいかも。(空気のないところはないから)
その空気は、
愛そのものといえるし、
ひとつの命(ワンネス)ともいえる。
自我の私は消えて、ワンネスだけがある。
そのワタシは、
すべての空間であり、
愛そのものであり、
命の躍動だった。
こうして・・・目を見開いたまま、言葉を失って、
しばし非二元(ノンデュアリティ)を体験した。
それまでは、
「私はいない」とか「愛だけがある」とか「死はない」とか…
そんなフレーズを耳にしてもチンプンカンプンだったけど、
ようやく実感!
なっとく~!!
まさに、非二元は、
唐突に向こうからやってきて、
体験を通して気づかされるサプライズだった。
私たちの正体は、命だったのだ。
それを「大いなるすべて」と呼んでもいいし、
「全体意識」と呼んでも、「神意識」と呼んでもいい。
そもそもが言葉を超えているのだから、表現がむずかしい。
でも、言葉を駆使すると、(笑)
命は、ありとあらゆるものを宇宙に表し続けている。
人間は、そうして表される一つに過ぎない。
ところが、人間は勘違いした。
「これは、私の命」だと。
いえいえ、
真実は「命が私」なのだ。
命が見ている夢物語こそが、それぞれの人生なのだ。
夢物語だから、どんな展開になっても問題ないし、
どんなときも、命という愛の中からはみ出ることはない。
誰一人、愛されていないなんてあり得ない!
それが完全に腑に落ちた。
だからもっと、うんと気楽に人生を味わえばいいし、
生きている実感があることを、素直に喜ぼう。
ダライラマは、死とは何かと尋ねられてこう答えた。
"Only chenjing body!"
肉体を取り換えるだけ。
命は、生ずることも、滅することもない。
まさに、永遠に続く、すべて。
命が〝主人公〟とわかって、ますます能天気になりました!(*^▽^*)
全体意識とひとつ
~~今日も日記風~~
前々回からの続き。
自分を「たっぷり我欲の詰まったガラスビーカー」
とイメージする。
前々回、
ビーカーの底が抜けて『真抜け』になったと告白した。
結果、中にあった執着心が落ちた・・・
そして前回、
筒状になった私の中を、
意識が自由に、次元移動ができるようになったと話した。
で、今回、何が起きたかというと、
その筒が、砕けた・・・
ガラスの破片は、まわりにそのままあるんだけど、
なんせ筒は生身の私の象徴だったから、びっくり。
感覚的には、
解放感がより強くなって、
私は私だけど、
全体意識の海に浮かんでる感じ・・・
目を閉じると、そのイメージしか浮かばない。
昔は、心を鎮めるために瞑想や坐禅に励み、
膨大なエネルギーと時間を注ぎ込んだもの。
今思えば、
エゴ意識でエゴを鎮めるなんてこと、
できっこなかったのにね。💦
はい、その通り全然できなくて、
失望して、挫折した。
「もうぜーんぶやめた!」ってね。
それで完全降伏したことがよかったみたい。
それから少しずつ、
霧が晴れるように、真実が見えてきた気がする。
今は、したいときに瞑想する。
その間、
ただ全体意識に還って、、、
無条件の愛になって、、、
安心して、ふたたび娑婆に戻ってくる。
もし、全体意識を大きな大きな雲に例えるならば、
(ほんとは全体意識に形なんてないけど、方便)
その大きな大きな雲の一部が、
ちっちゃなちっちゃな雲になって、
ピュ~ンと地球に降りてくる。
みんな、そうやって生きているんだよ~!
熟睡中、大きな大きな雲に還って、心身を癒し、
また地球で目を覚まして、今日の人生を体験する。
みんなで、ひたすらこれを繰り返している。
意識が覚醒するとそれがわかるよ。
私たちの正体がわかるんだ。
自分が何者かわかって、
安心して宇宙に身を任せ、
この人生に展開するドラマを楽しむ。。。
私はその方がいいな。(^^♪
自分の正体を知ることは、私の命がけの念願だったから、
今、感謝でいっぱい!!
こんな気持ちで、あした誕生日を迎えられるなんて、
まことにしあわせです。💖
最後まで読んでくれて、ありがとう。
天女の羽衣
~~今日も日記風~~
前回、私は『真抜け』になったと告白した。
(先月のブログ「神遊び」を読んでね)
あれから、自我として残ったビーカーの筒が、
どんどんきれいになっていく気がする。
なんせ当初は、垢だらけで見通し不可だったから。(ーー;)
心の垢は、一瞬で付着する。
ささいなことに動揺すると、
たちまち表れて〝本来の自分〟を見えなくしてしまう。
だから、垢落としは毎日必要、何度も必要。
心の垢を落とすコツは、
相変わらずのしょうもない自分を、
絶対に責めないこと、イエス!
むしろ、「これキャラよね」くらいの心積もりで、
余裕をもって受け入れる。
「またカチンときた~! でも、それだけのことネ」とか、
「不安だ~! この気持ち十分味わったから、もういっか」って。
どんな感情もわいたことを否定しないで向き合うと、
そのとき表れた垢は、それは幻だから、
自然消滅していく。
このコツをつかんだことは、便利、便利。
本当に大きかった。
自分という人間と一生付き合っていく上で、
恐れるものがなくなったから。
三次元にいる相変わらずの自分を体験することも、
高次元にいる人生ドラマを観ている眼になることも、
宇宙に溶けてスペースになることも、
できる。
自らの居場所を、自らの意志で選べる。
次元を、自由に行き来できるのだ。
まるで〝天女の羽衣〟を手に入れたような気分。(^^♪
これが、多次元を生きる、多次元意識で生きる、
ということか…!?
この羽衣ね、
わかったんだ。
ほんとは全員が、生まれたときから持っているって。
どの時点で「まとってた~」と気づくか…
それだけだよ。
神遊び
~~ 今日は日記風 ~~
ついに、底が抜けた!
自分が〝ガラスでできたビーカー〟だとしたら、
ビーカーの底がきれいに切断されて、
抜け落ちた。
底に溜まっていた我欲が、
ど~っと宇宙に流れて溶けて、
あとにガラスの筒が残った。
私は、ただの筒になったのだ。
宇宙の流れが
私の中を勢いよく流れていく。
もはや内も外もない。
過去も未来もない。
私は、スペースになっていた。
「マヌケ」とはこのことだろうか。
『真抜け』だ。
真に自我が抜け落ちること。
だけど、ガラスの筒は残っている。
私の個性はそのままだ。
私はふたたび〝人生の続き〟を生きはじめる。
でも明らかに違うのは、
人生は「宇宙が見ている夢」だとわかったこと。
だから人生はどこにも行きつかない。
行きつく必要など最初からなかったのだ。
それですっかり心構えが変わった。
私は今や、
宇宙が見ている夢舞台の登場人物であり、
スペース=観客でもあるから。
こうなったら安心して、
〝ひとり〟と〝ひとつ〟、私とワンネス、
両方楽しむぞ~~!
これぞ神遊びかも。。。(^_-)-☆
呼吸ってすごいヮ~!
クヨクヨしはじめると、
「あっ、心が過去に引きずられてた」とか
「また未来のことを心配してた」と気づいて、
心を今に戻そう! と懸命に励んできました。
「今しかない。今がすべて…」と言い聞かせて、
目の前の今あることだけを考えよう、と努めてきました。
でもねぇ、
「今しかない」の今って、どのくらいの時間だと思います?
1分?
それとも、1秒?
あるとき、
目の前の今あることだけ考えよう、
と考えているあいだは全然今にいなかったと気づいて、
めちゃくちゃ焦ったんですね。(ーー;)
「今しかない。今がすべて…」の〝今〟は、
1分でも1秒でもなかった。
針で刺した瞬間のような時間だった。
そう、ほんの一瞬。
どんな考えも入り込むスキのない刹那だったんです。
新しい今、生まれたての今、
それが、ただ在るだけ…
それが、次から次へと生まれているだけ…
そのことが感覚でわかったんです。
もし、点のような今に心を置き続けることができれば、
心はずっと平安でしょう。
そこには、思考や感情がいっさいないから。
まったく入り込む余地がないからです。
その今は、まさに「無」です。
私がこれを感覚でとらえたのは、
息を吸って吐いた直後のほんの一瞬。
ストップモーションのように現実が静止して、
「時間のない空間」に放り込まれたようになりました。
刹那を言葉で表現するのはむずかしいんですが・・・(+_+)
まあ、そんなような体験があって、
それからは呼吸をするとき、その点を意識すると、
いつでも「時間のない空間」を自覚できるようになりました。
私はおもしろくなって、
この呼吸を連続させられるかどうかが
「無」の状態を保てるかどうかだ、とチャレンジしています。
というか、
チャンレンジしたくなるんですョ。
なぜなら、どんなに心が波立っていても、
そこに着地すると、シーンと静かになるから。
一瞬で、心に平安がよみがえって、
これが本来の私たちの状態なんだとわかります。
常日ごろ、私たちを混乱させるものは
思考の力なんですね。
「思考するとき=自我が立ち現れるとき」だから。
自我は、問題を探してあおるのが仕事なので、
思考の力は必要なときだけ使うようにしよう、
と改めて思いました。
毎瞬生み出される〝新しい今〟にいれば、
心は静寂です。
この新しい今を見逃さないことがとても大事。
それにしても、
呼吸ってすごいですね。
まさに、宇宙と人間をつなぐツール。
点はそのゲイトだと納得!
あなどれませんョ。
一日に数えきれない呼吸をする私たちですから、
そのうちの何回かでも、
息を吐き切ったときの静寂に心を置いて、
何が起こるか試してみませんか? (^^♪
『今』という今なるときは なかりけり
『ま』のとき来れば『い』のときは去る
ーー禅師の言葉ーー
さらば、固定概念よ!
いやはや、2か月ぶりです。( ^^)
適当&いい加減ペースで、気が向いたら書くブログなので、
どうぞお気軽にお付き合いください。
さて今日は、この身に起きた不思議な話。
5月末、とうに抜いたはずの親知らず跡に、
そう、何十年も歯茎だったところですョ。
…がズキズキするので、歯医者さんに行きました。
「レントゲンには何も映っていないから、
原因はあごの骨かもしれません。口腔外科を紹介します」と言われ・・・
仕方なく別の歯医者さんへ。
が・・・そこでも同じことを言われて、がっくり。
最悪の場合はあごの手術だなんて、考えるだけで恐ろしい。
イヤだイヤだで2週間が過ぎたころ、
ありゃ~~~(+_+)
なんと、親知らず跡から歯が生えてきたぁ!?
ツンと顔を出した新しい歯を舌でむさぼりながら、
もう痛くないし、このまま様子を見よっと。
新しい歯は日に日に成長していき、
歯茎にパフっとおおいかぶさるような形で、5ミリほどに。
でも・・・なぜか、ペラペラ。
いったい何が起きているんだ!?
私は毎晩、ジェット水流で歯茎の手入れをしています。
で、その個所だけはずっと避けていたんですが、
うっかり直撃してしまいました。💦
すると、
あっという間もなく、歯がぶっ飛んだ!!
カバーのような形状の薄い歯が、洗面台にポロ~ン。
唖然。。。
なぜ?
どうしてこんな形してるの?
どうして親知らずを抜いたところに生えたの?
どうしてこんな簡単に抜けたの?
わからないことだらけでものすごく不思議だったけど、
痛くないし、さっぱりしたから、まいっか。
一連の出来事に、
「身体は、要らないものを出すようになってる」と夫。
彼が驚かないことに驚きつつ、まいっか。
実は、この一件、
私にとっては〝象徴〟というか、暗示だったようです。
なんの暗示かというと、
「要らない固定概念からの離脱」と、
そこにある「我執(恐れ)の撤去」です。
その日から次々と、我執を取り除く体験が続きました。
たとえば、まどろみの中で、
幼少時代から長年トラウマになっていた場面を、別の角度から見て、
自分の信じ込みに気づいてわだかまりが解けたり…、
夫婦喧嘩の真っただ中で、大いなる意識がその場面を俯瞰して、
その瞬間、夫の心にある深い願いが手に取るようにわかった…とか。
自分の心に傷をつけたり、希望に蓋をするものは、
「そんなはずはない」「これじゃダメ」
「こうに違いない」といった固定概念だということを、
別次元から全容を眺めたかのように理解できたのです。
それ以来、
見事に、さまざまな執着から解放されました。
我欲からも、固定概念からも、一気に自由になって、
物事や人をジャッジすることが激減しました。
そして、
心に浮かぶ人すべてに愛があふれ出すようになったんです。
誰の心にも、もともと愛しかないことがよくわかります。
私たちは本来、みんな愛の存在なんですが、
それぞれが愛を見失うよう計画して、今の人生を始めたんですね。
その目的は、
二元の世界で、愛じゃないものをいっぱい体験して、
もともと愛である自分にふたたび還るため。
改めて愛を思い出すその体験こそが、
魂の成長を大きく加速させるからです。
きっと、みんなシンクロしていると思います。
このところの地球の次元上昇の勢いに圧倒されて、
〝あっちゃー体験〟をしている人は多いかもしれませんが、
大丈夫ですよ。
唖然も、落胆も、わけわからんも、
ぜーんぶ、次元上昇のための片道切符と受け止めて、
消化&昇華しましょう!